At the crossroads


◇ At the crossroads ◇



 今日も来なかったか──と、オスカーは執務室の窓から夕暮れの朱に染まる空を眺めながら吐息をついた。

 ここ十日ばかり、何故かアンジェリークが彼のところに寄り付かない。いや、正確に言えば、二度か三度は育成の依頼には来たのだが、以前のように他愛ないお喋りに時間を費やすこともなく、用事が済んだらそそくさと去ってしまうのだ。
 公園や研究院などで顔を合わせる機会も無いではなかったし、その折にもちゃんと礼儀正しく挨拶はしてくるが、そのまま普通に雑談に興じたり、そこからデートの約束を取り付けるというような楽しい会話に発展しない。礼儀正しいだけ、というような印象がどうしても拭えない。
 素っ気ないとも感じられる平日のそんなふるまいもさることながら、何より気にかかるのは週末の行動だ。これまで必ず土の曜日には一緒に降りていた大陸の視察に同行を要請されず、その翌日の日の曜日も訪ねて来ないとあっては、毎週のように親しくデートを重ねていた日々と違いすぎて、胸がやたらにざわつくのだ。
 エリューシオンの発展は順調すぎるくらい順調で、その意味では何の問題もない。真剣に女王試験に取り組んでいる証だと言えばそれまでなのだが、オスカーにしてみるとあまりに彼女が脇目も振らずに育成に没頭しているように見えてしまって落ち着かない。
 ……いや、それでいい筈なのだ。本来は。
 アンジェリークが本気で女王を目指し、努力を重ねているのなら、守護聖として喜びをもってその後押しに力を尽くすべきだ。そう思って試験の日々を過ごしてきたつもりだった。いつしか彼女自身の輝きに目を引かれ心惹かれ、このまま手放すのは惜しいなと感じるようになってからも、自分は女王に忠誠を誓った守護聖なのだと常に自分を諌め言い聞かせ続けてきたのだ。
 それなのに、今のこの胸の痛みはどうだろう。恋を失おうとしている時の切なく狂おしい痛みとはまたどこか異なるような、ヒリヒリとした焦りにも似たこの落ち着かなさは。
 何かが間違っているというような警鐘が、心のどこかで深くしつこく響いている。それが恋ゆえに未練を叫ぶ自分の弱い心から来るものなのか、それとも見落としている何かが本当にあるのかどうかが、今のオスカーには判断がつかない。
「会ってみなければ始まらない、か…?」
 口の中で低く呟いてみて、オスカーは自分自身に苦笑した。
 何のことはない。本当は自分が彼女に会いたいだけだ。色々理屈をつけてでも、彼女の瞳を覗き込み、その本心の間近に迫りたい。
 初々しくも無邪気な恋を隠そうとすることもなく、いつも真っ直ぐにオスカーに駆け寄ってきては花のような笑顔をいっぱいに溢れさせていたアンジェリーク。その彼女が今何を思い、何を心に決めて彼から遠ざかろうとしているのか、それだけはきちんと知らなければならない。彼女の決意がどうであれ、それを知ることなしには守護聖としての自分の取るべき道も固められない。そうオスカーは思った。

 翌日はまだ木の曜日だったが、オスカーは朝から女王候補寮を訪ねていって、森の湖にアンジェリークを連れ出した。
 突然の彼の訪問に、最初は目を丸くして驚いて、それから湧き上がる嬉しさに瞳をきらめかせて満面の笑みをたたえたアンジェリークのその喜びに嘘はないと、そう感じられた。だが一瞬だけ、湖への同行に応じて大きく頷いた次の瞬間、さっと彼女の面に走った後ろめたさのような陰りにも、オスカーは気づいていた。
 とはいえ、他の誰かに心を移したわけではないと、そう断ずる自分の直感に間違いはないと思えた。彼女の心を占めるものがあるとしたら、それは宇宙だ。ライバルとしてはその存在は大きすぎるなと、オスカーはほろ苦く思う。守護聖としては、身を引くべきだということはわかりすぎるくらいわかっている──筈だった。
 陽光は美しく輝き、湖を渡ってくる風は芳しく香り、まだしっとりと朝露を含んでいる緑はやわらかく二人を包み込んで優しい。愛しい女から引導を渡してもらうには決して悪くない日だと、少し皮肉に口元をゆがめながらオスカーは思った。
 それでも、なぜだろう、当たり障りのない会話を続けながら普段通りに明るく振る舞うアンジェリークの表情の中に、時折微かに苦しそうに抑えた陰が見え隠れするように思えてならず、それに気づく度に心は暴れだしそうになる。
 諦めたいだなどと、これっぽっちも思ってなどいないのだ。自分の本心は。
 それでも、アンジェリークの意思に従う。それだけは決めて来た。

 ……確かめなければならない。そのために二人きりの湖へとやって来たのだ。

 他愛ない会話がふと途切れ、ぽかりと切り取られたような沈黙が落ちた折をとらえ、オスカーはアンジェリークに向き直った。
「お嬢ちゃん──」
 違う。ことさらに子供扱いを強調したこんな呼びかけではなく、真剣に彼女に語りかけるのならば、ふさわしい言葉は別にある。
「アンジェリーク」
 自分のものとは思えないような、掠れて引っかかった囁きが口からこぼれ落ちた。
 その瞬間、ハッと鋭く息をのんだアンジェリークの瞳がこぼれんばかりに大きく見開かれ、信じられないという喜びと切なく惑う気後れのようなものがないまぜになった色合いに潤んできらめいた。その揺れる瞳を見た途端、言うべき言葉が一瞬にしてかき消えて、複雑にけぶるその緑の光の奥に宿っている意味合いを探り出したいという気持ちだけが膨れ上がってきた。
「……アンジェリーク」
 もう一度ゆっくりと、先ほどに倍する熱さを含んでその名を繰り返すと、オスカーの胸の奥で急激に激しい炎が逆巻いて膨れ上がり、体の内側から突き上げる衝動となって身を灼いた。
 抑えろ、と、頭の片隅で声が響く。勢いを増す炎の中でその声が急速に霞んで遠のくのを感じながら、オスカーはぐっと唇を引き結んで束の間目を閉じ、それから短い吐息と共に自らを縛ってきた理性の抵抗を手放した。
 一歩の距離を一瞬で詰め、腕の中にアンジェリークの華奢な体を捉えてかき抱く。びくりと硬直した彼女の体は、それでも反発の気配もなくただ受け入れてくれているように感じられた。たちまち途方もない愛おしさが湧き上がって、オスカーは思わず熱い息をついた。
「……守護聖である俺が、こんな振る舞いに出るべきじゃない。それは嫌というほど分かっていたつもりだったんだがな」
 一度ぎゅっと強く抱きしめて、柔らかな髪に唇を埋めながら自嘲的に呟くと、オスカーは少しだけ身を離してアンジェリークの顔を覗き込んだ。
「女王候補の君を、応援しようと思っていた。女王の御位を目指して突き進む君に力添えしてその背を押してやるのが守護聖としての義務だと、誰より強く肝に命じていた筈だったんだ。……なのにどうだ、いざ女王試験が佳境を迎えたら、どうしても君を手放せないと──君が一人で至高の玉座に登っていく背を見送りたくなどないと、そう思ってしまう気持ちを抑えられなくなっていた」
 アンジェリークはまじろぎもせず、息を詰めたままでオスカーをひたと見つめ返している。その瞳に翳りがさすことを密かに恐れ、胸がきつく締め上げられるような緊張をおぼえながら、オスカーは次の言葉を押し出した。
「君が欲しい。君が愛しい。この気持ちを告げることなく押し込めたまま、君を見守っていくべきだったことも本当は分かっている。だがそれでもどうしても、君がそんな切ない目をしたまま玉座への道を進んでゆくのを看過できなかった」
 真剣な彼の言葉にアンジェリークの体がぶるっと震え、しゃくり上げるように小さく喘いだ。その緑の瞳は潤んで揺れ、ずっと詰めていた息が解放されて、浅い呼吸が繰り返される。そんな彼女の動揺をじっと瞳に捉えたまま、オスカーはひとつ息を吸い込み、低い声で問いかけた。
「君は本当に、このまま女王になりたいか? もし迷いなくその通りだと答えられるのならば、俺はこの思いを封印し、誰よりも深い忠誠を君に捧げ、君の忠実なる騎士としてのみ生きることを誓おう。だがもしも、君の中にほんの少しでも迷いがあるのなら、君の前に膝をつき愛を乞うることを俺は止められない。アンジェリーク、どうか今、君の真実を聞かせてくれ」
 言葉を重ねるほどに熱い思いがほとばしり、強い視線が彼女を縫い止めていくことを自覚しながら、ほんのわずかな反応も見逃すまいとオスカーは全神経をアンジェリークに集中した。
「アンジェリーク」
 囁くようにもう一度名を呼ぶと、彼女の瞳が大きく揺れて、それから強張った体の力がふっと抜けてオスカーの方へと身を預けてきた。反射的に先走ろうとする歓喜の波をぐっと抑えて、オスカーは胸の中に抱きとめた彼女の体をそっと包むように抱いた。
「………オスカー様」
 彼の肩口に額を軽く当てたまま、喉につかえたような小さな小さな囁きが、アンジェリークの唇からこぼれる。オスカーは息を詰めて彼女の言葉の続きを待った。
「そんなこと、私、望んでしまっていいんでしょうか?」
 何かを恐れるかのような微かな囁きを、オスカーは全身を耳にして受け止めた。
「少し前に、私、オスカー様の幻影を見たんです。起きたまま見る夢のような──ううん、それよりもずっと、とてもはっきりくっきりとした映像で、目の前で本当に起こっていることとしか思えなかったわ。その幻影の中で私は女王になっていて、オスカー様から即位のお祝いの言葉を受けてたんです」
 アンジェリークは一度小さく震え、彼の胸に顔を埋めるように強く押し当てた。
「オスカー様のお顔も声も、何かを思い決めたようにとてもさっぱりと力強くて、女王としての私を支えると誓ってくださってました。それがオスカー様の決断なんだってことがすごく自然に感じられて、きっとこれがこれから起こることなんだわって思えたから、幻影から覚めた時にはとても胸が苦しかった。……宇宙が私を選んで、この未来を見せてくれたんだとしたら、私はそれを受け止めなきゃならないのかしらって、そう思ったの」
 彼女の声がわずかに揺らぎ、少しの間息遣いを整えようとするように言葉が切られた。オスカーは今言葉を挟んではならないと感じ、きりりと鋭く穿たれるような胸の痛みを抑えながら、じっとアンジェリークの言葉を待った。
「だからもうオスカー様とは会えないって、その時は思ったんです。でも、今朝オスカー様がいらしたら、そんな決心なんてどこかに飛んでいっちゃって、会いに来ていただけたことがすごくすごく嬉しくて、だけど同じくらい苦しい気持ちにもなりました。……本当に、本当に私、オスカー様のことを望んじゃってもいいんですか? 本当は迷ってるんだって、言っちゃってもいいんでしょうか? オスカー様と一緒にいたいって、ずっとそばにいさせて欲しいって、本当のことを言っちゃっても…?」
 ずっと抑えていたものが堰を切ったかのようにほとばしるアンジェリークの告白を受けながら、色んなことが腑に落ちていく。板挟みの苦しみの中にあって一人もがいていたアンジェリークを愛しくいじらしく思いながら、オスカーは大きく息をついた。
「アンジェリーク。俺たちは、守護聖と女王候補として出会った。それは間違いない」
 オスカーはそっとアンジェリークの髪を撫でながら、静かに答えた。
「君の見たというその幻影の未来に、君が純粋な希望や喜びを感じていたのだとしたら、俺は守護聖としてそれを受け入れ、これが運命なのだときっぱり諦めたかもしれない。むしろ誇りとして受け止めさえしたかも知れない。だが、そんなにも苦しい声で語られた未来を、俺は断じて受け入れられない」
 彼は一度言葉を切って、真剣なまなざしでアンジェリークの瞳を見据えた。
「君が女王になるのなら、心からそう望み自分で選んだ幸せな女王でなければならない。そんな女王ならば、俺は喜んで戴き、真心をこめて守り仕えるだろう。守護聖の義務だからというわけじゃなく、俺自身が心からそう望んで、君を支える騎士としての道を真っ直ぐに歩むだろう。だがもしも、少しでも君の心に影が差すのなら、俺にはとても受け入れられない。たとえ守護聖としてふさわしからぬ振る舞いと謗られたとしても、君をこのまま女王候補として扱い続け、望まぬ道へと追い込むようなことはできない」
 語り聞かせるうちにオスカーの声は熱を帯びて徐々に口早となり、アンジェリークを抱く腕にもまた、しっかりと離すまいと力がこもった。
「もう一度言うぜ。俺は君が欲しい。君が愛しい。君にはあたう限り曇りなく幸せな生をこそ送って欲しい。どうか女王候補を降りて、俺と共に生きる道を選びとってはくれないか。君が俺を望んでくれるのならば、全てから君を守り通すと誓おう。──だから今、俺から君に乞い願う。ずっと俺のそばにいてくれ、アンジェリーク」
 まっすぐに彼女を見つめながら真摯に熱く訴えるオスカーに、アンジェリークの唇から安堵と喜びの混じり合った吐息がほっとこぼれ落ち、それから彼女は潤む瞳でオスカーを見つめて頷いた。
「私を離さないでください、オスカー様」
「アンジェリーク…!」
 今度こそ押し寄せる喜びの波に身を任せながら、オスカーはアンジェリークを強く抱きしめた。思わず少し力が入りすぎたか、絶え入るようなアンジェリークの吐息に慌てて少し腕の力を緩めると、彼女は幸福そうに微笑んで彼の胸に身を預けてきた。
 そのまま二人は言葉もなくいだき合い、梢を静かにそよがせる優しい風に包まれて、ただ互いの存在だけを感じ合っていた。
 やがて軽く身じろぎした彼女は、目元をほのかに赤く染めながら、オスカーを見上げてうっとりと微笑んだ。
「オスカー様……私、オスカー様が好きです。大好き。ずっと好きだったの。こんな風に叶ったなんて、信じられないくらい嬉しくて幸せで、夢の中にいるみたいです」
「俺もだ、アンジェリーク。君を心から愛している。芯から惚れ抜いた相手とこうして思いを通じ合わせたからには、もう決して離さないぜ。文字通り、一生だ。覚悟しておけよアンジェリーク?」
 言いながら、自然と口元がほころんでいくのがわかる。オスカーは湧き上がる愛おしさのままに彼女の頬に手を添えて包み込み、ずっとそうしたいと望んできたように、愛らしいその唇にゆっくりと唇を重ねていった。
 一瞬だけ身を固くしたアンジェリークが微かにわななき、すぐに力を抜いてオスカーに全てを委ねてくる。柔らかくほどけて彼を受け入れてくれる唇が、彼女もまたこの瞬間を待ち望んでいたのだと、何よりも雄弁に伝えてきてくれていた。

 選びとったこの道を進んでゆくことに、もはや何の迷いもない。
 これからずっと、二人で共に生きていこう。未来に何が待ちうけているのだとしても。
 共に支え合い、互いを慈しみ、この先の人生の全てを分かち合おう。
 命あるかぎり、君を離しはしない。
 今強く結ばれたこの絆を、一生かけて大切に、二人で守り育てて行こう──。


あとがき

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