その瞳に


◇ その瞳に ◇



 ──また、あの眼だ。

 心臓がとくんと跳ねる。
 アンジェリークはそのままとくとくと速いテンポで駆け出そうとする動悸をごまかそうと、テーブルのアイスココアに手を伸ばして、そっと一口すすった。
 そのまま落ち着かなげに指先でストローを弄ぶ彼女を、テーブルを挟んだ反対側からオスカーがじっと眺めている。
 カプチーノのカップを前に、軽く片肘をついて頬を支え、長い足を組んだその様子はいかにもリラックスしており、口元は軽く上がって小さな笑みを形作っている。彼のその様子をして上機嫌か不機嫌かというならば、間違いなく上機嫌な方にはいるだろう。
 だがその表情は彼女に笑いかけてくるというほど笑顔ではなく、面白がっているというほど軽くもなく、ただその澄んだ瞳が真っ直ぐに彼女を射抜くようで、アンジェリークを落ち着かなくさせるのだ。


 オスカーとデートを重ねるようになってから、アンジェリークは彼が思っていたほど饒舌な人ではないということに気づくようになっていた。

 オスカーには、いかにも弁舌爽やかというイメージがある。
 いつも人の中心にいて、その場の空気をぐいぐい引っ張っていくタイプ。女性に囲まれていることを目にすることも多く、そういう時には格別陽気で口がうまくて調子がよくて、「宇宙一のプレイボーイ」などと、褒めてるんだかけなしてるんだかわからないような呼び方をされているのももっともだと思わせるものがあった。
 いつだったかロザリアが、通りすがりに流れるような賛辞を浴びせかけられたとかで、「口から先に生まれていらしたような方」などと、身もフタもない言い方をしながら、それでもほんのちょっぴりまんざらでもないような顔をしていたこともある。
 アンジェリークも、最初はそう思っていた。だからオスカーに対する時には、いつもちょっとだけ身構えていた。
 自分は絶対、彼の調子のいい言葉に乗せられて、舞い上がってのぼせたりなんかしないんだから。
 そう、思っていた。

 それがいつ頃からだったろう。一緒にいるとき、オスカーよりも自分の方ばかりが喋っていることが多いのに気づくようになった。
 元々、とても聞き上手な彼は話を引き出すのがうまく、いくらでも楽しく喋っていられる。だから、そうと意識するようになるには時間がかかった。だが一旦気づいてみると、アンジェリークの問いかけ自体には、実は最小限の答えしか返ってきていないというような気がする。 もちろん、ちゃんと答えてはくれるのだし、はぐらかすというのとは少し違うのだけれど。
 でも彼は、自分自身のことはあまり話さない。
 そう気づいた時、もっと彼のことを知りたいと強く願う自分に少しだけ驚いた。──その時にはもう、オスカーのことを好きになってしまっていたのかも知れない。

 もっと彼の、いろんなことを知りたいと思う。
 ただ、正面切ってこちらから、根掘り葉掘り質問攻めにするようなことはしたくない。多分彼のことだから、気さくに笑って応じてはくれるだろうけれど、そんな誰もがもらえるような表面的な答えが欲しいというわけじゃない。
 いや、本当に本当の正直なところを言ってしまえば、どんなに表面的でも断片的でも、オスカーのことだったら何でも知りたいという気持ちにも、既になってしまってはいるのだが。


 そんな気持ちに揺れているから、こういうふとした沈黙は落ち着かない。
 守護聖専用とされているこのカフェテラスには他に客もなく、今はウェイトレスも奥へと下がっていて、彼らの他に人影はない。
 オスカーと二人きりだということを突然意識し、高鳴っていく胸の鼓動を持てあまして、アンジェリークはまた一口アイスココアを飲むと、所在なげに視線を手元に落とした。

 オスカーが、小さく笑う気配がした。
 そちらを見やるより前に、テーブル越しに伸ばされた手が彼女の顎にかかり、軽く上向かされた。
 たちまち固まり、真っ赤に染まるアンジェリークを、オスカーは口元に微笑みを浮かべたまま、じっと見つめてきた。
 この眼。何もかもを見通すような、鋭い、それでいてとても澄んできれいな眼。
 まるきり全身が心臓になったかのように感じながら、瞳を一杯に開いて彼を見つめ返すことしかできなかった。

「お嬢ちゃんの瞳は、初夏の草原の色だな」
 オスカーがゆったりと笑い、その指が頬をすっと撫でた。
「──懐かしい色だ。故郷の光景を思い出させる」

 そう言った時のオスカーの瞳には、常よりもずっと柔らかい優しい光が宿っていた。アンジェリークは、ふいに胸がしめつけられるような思いに、息が詰まるのを感じた。
 急にそんな眼をするなんて反則だ。どきどきしすぎて、目眩がする。
 何か言わなければ。そう自分に強いて、彼女はわずかに震える唇を開いた。

「オ──オスカーさまでも、故郷を懐かしく思ったりなんてなさるんですか」
 言ってしまってから、なんでこんなことを言っちゃったんだろう、言うにしたってもっと別の言い方があった筈だと、アンジェリークは一人であたふた慌て、どぎまぎと頬を染めた。
 だが、オスカーはさして気にした風でもなく、軽くにこりとしてみせてから答えた。
「望郷の念というのとは、ちょっと違うが」
 オスカーは薄く笑い、それからほんの少し口元をひきしめた。
「あの星は俺を育んだ大地、俺の礎であり俺の誇りの源だ。心を離れたことなどはない」
 強い光が彼の瞳に宿る。アンジェリークはドキンとして、ただじっとオスカーを見つめていた。
「仮に、あの星の為に命を賭ける必要があったなら、俺は喜んでこの身を差し出すだろう。草原の星は俺にとって、そういう存在だ。もっとも、守護聖である間は宇宙全体に対する義務の方が大きいし、この身が必ずしも俺の自由になるわけではないがな」

 きっぱりとした口調。とても強い誇り。全身にみなぎる強い強い意志の力。
 このひとが好き。──ああ、どうしよう、この人のことがすごく好き。
 惹かれずになんていられない。いられるわけがない。

 溢れてくる想いに押しつぶされてしまいそうで、アンジェリークは動けなかった。動くどころか、視線はオスカーの目に捉えられたまま、 息をすることさえ難しい。
 ふっと、彼の瞳が和らぎ、口元がほころんだ。
 強烈な呪縛が解けて、息くらいはなんとかできるようになった。それでも彼から目はそらせない。
 オスカーがほんの少し、目を細めた。

「そろそろ、行くか」

 そう言って立ち上がり、すっと自然に差し出された手の中に、アンジェリークは自動人形のような仕草で自分の手を委ねた。
 アンジェリークが立ち上がり、揃ってカフェテラスを出て、公園の中を横切って行く間も、オスカーは軽く彼女の手を握ったまま離そうとはしなかった。
 重ね合わされた掌から、オスカーの温もりが伝わってくる。それがとても心地いい。
 ずっと、離さないでいて欲しい──ううん、もっとしっかり握って欲しい。できることなら、恋人同士のように指を絡め合って歩きたい。
 そう思って、アンジェリークは自分の考えの大胆さに思わず頬を染めた。

 恋人だなんて。そんなの高望みにすぎることくらい、自分が一番わかってると思う。
 私は「守備範囲外のお嬢ちゃん」で、せいぜい保護者みたいな気持ちを持ってもらうくらいが精一杯。
 ああ、でも、彼に手を取られて歩くのは、なんて素敵なんだろう。
 どきどきするけど、すごく気持ちが浮き立つ感じ。このままずっと、寮になんか着かなければいいのに。


 けれども楽しい時間の常で、ほどなく彼らは女王候補寮に着いてしまった。
 部屋の前までくると、オスカーは彼女の手を離し、視線は合わせたままに「それじゃあな」と低く告げた。
 ぼんやりうなずきながら、アンジェリークはオスカーを見上げたまま動けなかった。
 彼の眼に射抜かれたまま、動くなんて無理だ。その視線の熱さに、灼き尽くされてしまいそう。

 そう思った時、突然気づいた。
 彼女がなすすべもなく彼の眼に捕らえられているとき。それはそのまま、彼女が彼の視線を捉えて放さないという時間に等しいのだと。
 今、自分もまた、確かに彼を捕らえている。
 唐突なその認識に、アンジェリークは息を止めた。まるで雷光に打たれたような衝撃だった。

(オスカーさま──?)

 体の底から湧き上がってくる狂おしい希望と、まさかそんなと打ち消そうとする根強い不信の間で惑う彼女のその変化は、オスカーにもはっきりと見て取れた。
 艶を帯びて潤み、どこか大人びたかぎろいを宿した少女の瞳を見つめながら、彼の手が引き寄せられるように彼女の頬へと添えられた。
 燃えるような氷青の視線が、けぶる緑の瞳を貫く。そして、あっと思う間もなくその距離が詰められた。
 わずかに開いた柔らかな唇の上を、ごく軽く彼の唇がかすめて過ぎる。
 次の瞬間にはオスカーは身を起こし、すっと一歩下がっていた。

「また明日、な?」
「はい──また、明日…」

 一見さりげないオスカーの微笑みを、呆然と見上げながら小さく答えた時、ほんの一瞬彼の瞳にせつない光が宿ったのがわかった。
 驚きに目を見張った彼女の髪をくしゃりとなでて、オスカーはきびすを返すと、いつものようにしっかりとした足取りで去っていった。
 その後ろ姿を見送りながら、アンジェリークは震える指でそっと唇を押さえた。甘い期待に、胸がうずく。


 明日。また、明日。それだけの言葉が、なんて嬉しい。
 昨日わからなかったことが今日わかったように、今日気づかなかったことに明日は気づけるだろうか。明日にはもっと、いろんなことがわかるだろうか。
 ──きっとそれは、彼の言葉ではなく、彼の瞳の中にある。
 彼女が本当に知りたいことは、全部。


 明日はどんな日になるんだろう。
 アンジェリークはもう一度指先で唇をなぞり、ほんのりと夢見るように微笑んで、それから自分の部屋へと入っていった。


あとがき

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