FAITH


◇ FAITH 3 ◇



 アンジェリークは部屋の窓を大きく開いて夜空を見上げ、はあっと深い溜息をついた。
 やらなければならないことはいろいろあるのに、何だか何も手につかない。机の上には宇宙生成学の教科書やエリューシオンの最新データが広げられており、さっきからずっと数値とにらめっこをしているのだが、全然頭に入ってこないのだ。煮詰まっているなあと思い、ちょっと風にあたりたくなって窓を開けた時、細い細い月が木立の上にかかっているのが目に入った。
 少しひんやりとした夜気の中で硬質な輝きを放っているその細い月の鋭さが、恋しい人の視線を連想させる。すぐそこにあるように見えながら空の高みに遠いそのきらめきが、手を伸ばしても届かないこの想いを象徴しているかのように思えて、思わずやるせない吐息がもれた。
 オスカー様、と、声になるかならないかの微かな呟きが唇からこぼれ出る。途端にアンジェリークはさっと顔を赤らめ、聞いている者などいるわけはないのに奇妙にどぎまぎとしてうろたえた。
 そんな自分が自分で恥ずかしくて、彼女は窓辺から離れるとベッドに倒れ込み、枕にぽすんと顔を突っ込んだ。
 ……どうかしている。
 自分は女王候補で、女王を目指す試験の為にこの飛空都市に来ているのに、今になってこんな気持ちに揺れているなんて!
 いつの間にこんなに好きになっちゃったんだろうと思いながら、アンジェリークは枕を抱きかかえたまま仰向けになり、ぼうっと天井を見上げた。


 最初は嫌っていた筈だった──と思う。とにかく顔を合わせればからかわれ、軽くあしらわれるのが嫌で嫌で、「なんて人だろう」と腹立たしく思ってばかりいた。でも今から思えば、見返してやろうと発奮したり、ことさらにつんけんと対応してかえって笑われ、ひどく悔しい思いをしたりという、そんな全てもオスカーのことを強く意識していたからこそだったのかも知れない。
 やっぱり最初から好きだったのかなあと思いながらも、反発を覚えてばかりであった気持ちがいつから変化していったのか、実はアンジェリーク自身にもはっきりとはわからない。
 ある日突然好きになったというわけではないのだ。きっかけと言えそうな出来事がなかったわけではないが、これだときっぱり言えるものではない。見直したと思った後にやっぱり嫌いと揺り戻しがあったり、どうしようすごく好きだと思ってしまったその前から、もうとっくに好きになっていたような気もするし、とにかく「いつの間にか」としか言いようがなかった。

 それでも、最初に彼の印象が少し変わった時のことは覚えている。あれは、最初の中間審査でぼろぼろに敗れて落ち込み、なんとか巻き返そうとがむしゃらに頑張っていた頃のことだった。
 とにかくロザリアに追いつかなくちゃという一心で、守護聖の誘いも全部断って毎日育成と勉強に明け暮れていた彼女を、ある日オスカーが「ちょっとつきあえ」と言って、無理矢理公園へ引っ立てて行ったのだ。
 引っ立てられた、としか言いようのない状態で連れていかれたのは、公園のカフェテラスだった。彼女がなんだかんだと抗議の声を上げているのを無視して、オスカーはアンジェリークを席につかせると自分も斜め前の席にどかりと腰を降ろした。強引なやり方に少々腹を立てながらも、何かあらたまってお話でもあるのかしらと思っていたアンジェリークの目の前に、あらかじめ指示されていたようにささっとアイスココアといちごのタルトが並べられ、彼女は思わず目をぱちくりさせた。
「…なんですかこれ」
「お嬢ちゃんの好物だろう?」
「好きですけど…どうしてオスカー様がご存じなんですか」
 好きな物の話なんて誰にもした覚えもないのにと思って、ちょっと戸惑い気味に見上げると、オスカーは自分の為に頼んだコーヒーを片手に、リラックスした様子でくすくす笑った。
「俺の観察眼を見くびってるな、お嬢ちゃん。そのくらい、ひと月も見てればだいたいわかる。──まあ食えよ」
 一瞬、ダイエット中ですとかなんとか反駁しようかとも思ったが、オスカーの目がいつもと違ってなんだかちょっと優しいような気がしたので、なんとなく気が削がれて素直にタルトに手をのばした。もくもくと食べ始めたアンジェリークを見て、オスカーは「よし」と頷き、それから自分は自分で公園の緑など眺めながらのんびりとコーヒーを楽しみ始めた。
 大好きな甘いタルトを平らげ、アイスココアを飲むうちに、アンジェリークは自分の心がほぐれていくのを感じた。ほぐれたおかげで今まで張り詰めていたことが初めてわかるような、そんなほぐれ方だった。オスカーはと言えば、別に何を言うでもなく、そ知らぬ顔でコーヒーを飲んでいる。そんな彼を見ながらアンジェリークは唐突に、ああ空が高いなあなんてことを思い、そんなことを思った自分にちょっと微笑んだ。オスカーがその笑みに気づいて、満足そうに頷いた。
「食べたな」
「はい」
「よし」
 それだけの会話で、彼らはカフェテラスを後にした。オスカーは「がんばれ」とも「がんばり過ぎるな」とも、普通こういう時に言いそうなことを何一つ口にせず、ただぽんぽんと彼女の頭を軽く叩いて、それじゃあなと去って行った。その後ろ姿を見送って、アンジェリークはふうんと思った。ただふうんと、それだけ。それだけのことだった──その時は。

 それからも、特別何があったというわけではない。
 自然体で試験に臨むようになってからだんだんと育成も軌道に乗り、守護聖たちともロザリアとも仲良くなっていく中で、オスカーとはやっぱり反発したり、その一方でちょっぴりドキリとしたりということを繰り返しながら、普通に日々を過ごしていた。
 あえて言うなら、平日にエリューシオンの様子を見に行って来たとき、もどった瞬間たまたまそこに居合わせた彼とばっちり目が合ってしまい、一瞬どきんとすごく大きく胸が高鳴ったことに自分でびっくりしたことがあった。彼の瞳の綺麗な澄んだ青色が、その時なぜかとても熱いもののように感じられて、心臓が喉元までせりあがってきたかのような感覚を覚えたのだ。
 でもそのあと彼はすぐに、いつもと変わらない表情と態度で接してきたものだから、たまたまそんな風に見えただけなのかなあ、やっぱり炎の守護聖様だからかしら、などと思ってそれ以上深く考えることはやめてしまった。
 その筈なのに、それ以来ふとした何気ない瞬間にあの時のオスカーの瞳の色が思い起こされ、なぜだか落ちつかない気分になることが増えた。
 多分そのせいで、ついオスカーに視線が吸い寄せられるようになってしまったのだ。そしていつしか、気づくと彼の姿を目で追ってしまうようになっていた。だから、今思えばあれがきっかけと言えばきっかけであったのかも知れない。

 決定的だったのは、ロザリアの部屋へ遊びに行って、テーブルの上に飾られた見事な赤いバラの花を見たときだったろうか。
 いかにも情熱的で華やかなその花を見た瞬間、オスカーの甘い笑顔が連想されて、ズキリと胸を刺し通されるような衝撃を受けた。──全身が一瞬さっと冷え、きゅっと喉が詰まったように息苦しくなる。そんな自分自身の思いがけない反応に、アンジェリークはうろたえ、ひどく動揺した。
「……綺麗なバラね、どうしたの?」
 喉のつかえをなんとか飲み下し、お茶の支度をしてくれているロザリアの背中に向かって恐る恐る問いかけると、ロザリアはちょっと困ったようなそれでいてどこかくすぐったげでもあるような顔をして、ああと小さく笑った。お茶のセットを運んで来ながらことさらなにげない風で彼女が口を開くまでの、その短い間がどれほど長く感じられたことだろう。
「それね。この間ランディ様に頂いたのよ。あの方がこんなお花を持っていらっしゃるなんてすごく意外だったけれど、『他に花なんかあまり知らなくて』なんて言われたら、なんだか納得してしまったわ」
 ロザリアがそう言って笑いながら茶器を並べる。それを手伝いながら、どっと安堵が全身に広がるのをアンジェリークは感じた。
「そうなんだ──それはそれで、とってもランディ様らしいわね?」
「でしょう?」
 少し面映ゆそうで、でもまんざらでもないようなロザリアのクスクス笑いに頷き返しながら、アンジェリークは安堵に続いて沸き起こった別の感情の波に困惑を覚えていた。
 オスカーがロザリアに赤バラを贈っていたのかと思った時、一瞬ひどく嫌な気持ちがした。悲しいような苦しいような、胸が締め上げられるような気持ち。あれは嫉妬だ。ランディから贈られたものだと知って、自分でも驚くくらいほっと力が抜けたのも、オスカーが他の誰かに目を向けるなんてイヤだと思ってしまったからこそだ。
 やきもちなんて気持ちとは、ずっと無縁に生きてきたのに。自分がそんな感情に揺さぶられることがあるなんて、思ってみたこともなかった。
 その時初めて自覚したのだ。オスカーのことが好きなのだと──遅まきながら、強く、深く。
 それはとても強い感情で、アンジェリークはどきどきと急速に高鳴る胸を強烈に意識した。ロザリアにその動揺を悟られたくはなくて、彼女は混乱する気持ちを少しでも鎮めようとお茶に手をのばした。
「ランディ様とおつき合いしているの…?」
 お茶を飲みながらさりげなくそう尋ねてみると、ロザリアは一瞬薄く頬を染め、少しためらってから「いいえ」と答えた。
「よく気晴らしにと誘って下さるけれど、おつき合いしているというほどではなくてよ。もちろん、とてもいい方だと思うし楽しく過ごさせて頂いてもいるけれど、でもわたくしは女王候補であの方は守護聖ですもの。好ましい方とは思っても、それ以上のものではないわ」
 淡々と自分に言い聞かせるようなその言葉は、アンジェリークの胸に楔のように打ち込まれた。
 たった今自覚したばかりのこの感情は、女王候補として立つ以上は押し込め否定し消し去ってしまわなければならないものなのか。気づいたばかりなのに忘れなきゃならないなんてあんまりだと、思わずこみあげてきたものの思いがけない大きさに、アンジェリークは慌ててお茶と一緒に喉元の塊を飲み下したのだった。


 ──その日以来、諦めなくちゃという気持ちとそれでも好きという気持ちとに揺れて、彼女の心は激しく乱れるようになった。忘れなければと意識するあまり、かえっていつでも彼のことで心がいっぱいになってしまったようで、自分でもどうしようもない感情の起伏に翻弄され続けて来たのだ。
 そんなあれこれを思うともなく思い返しながら、アンジェリークは天井を見つめてふうっと大きく息をついた。

 育成が軌道に乗り、エリューシオンに深い愛情を抱くようになってから、アンジェリークにとっても女王の座を目指すということは、ロザリアに負けず劣らずはっきりとした強い望みとなっている。自分を認めて応援してくれている守護聖たちの期待にも、ちゃんとしっかり応えたいという気持ちもある。
 それにひきかえ、オスカーへの思慕は所詮ははかない片恋であって、どうせかなわないなら早めに諦めてしまった方がいいのだと、頭ではその理屈もちゃんとわかってはいるつもりだ。自分が「守備範囲外のお嬢ちゃん」でしかないことは、嫌というほど自覚している。
 ……それでも普通に片想いしているというだけだったら、まだ少しは望みがあるかもしれないと、そんな風に思ってみることくらいはできたのかも知れないのに。
 彼女はそう思って、抱えていた枕を一層ぎゅうっと抱きしめた。

 恋がこんなに苦しいものだなんて知らなかった。もっとずっとうきうきふわふわ楽しくて、ドキドキしながら時には胸がきゅっとするくらいの、ほんのちょっとのもどかしさと甘いときめきに満ちたものくらいにしか思っていなかった。でも現実にはもがいてあがいて、自分で自分が嫌になるくらい苦しくて辛いことばかりだ。
 それでもどうせ先に望みはないのだから、この想いは初めからなかったものとして誰からも隠さなければと彼女は思っていた。
 特にオスカーには知られたくない。──いや、本当は知って欲しい。彼を恋い慕うこの気持ちだけでも、とてもとても告げてしまいたくてたまらないのだけれど、そうであればこそ、知って欲しいと思っていることを知られたくなかった。
 矛盾していることは百も承知だ。でも、オスカーが女王候補としての自分を評価してくれていることは感じているから、彼に失望を抱かれることだけはやりきれない。アンジェリークが女王になることを彼が期待してくれているなら、せめてその期待には報いたかった。
「……そうよね。がんばろっと」
 アンジェリークは天井に向かって呟いて、それからえいっと勢いをつけて起き上がった。
 自分にできることは多くはない。だからこそ、やれるだけのことはしたいと思う。彼女は自分を奮い立たせるように決然と窓へと歩み寄り、一度だけ細い月にちらりと切ない目を投げてから、ぱたりと窓を閉めて机に向かった。


 ──その同じ月の下、彼女の恋しい人が板挟みの胸苦しさを振り切るようにして馬を駆けさせていたことを、アンジェリークは知らない。



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