FAITH


◇ FAITH 4 ◇



 そうして時は過ぎ、飛空都市での日々は粛々と進む。細かった月は満ち、再び細り、そしてまたゆっくりと満ちてゆく。
 エリューシオンとフェリシアは抜きつ抜かれつを繰り返しながら着実に発展を続け、二人の女王候補はどちらもそれぞれに目覚ましい成長を見せながら、その資質を開花させていた。
 守護聖たちの評価も、アンジェリークを支持する者とロザリアを支持する者がいつも大体半々くらいというところで、どちらか一方が大きくリードするというほどの差はつかない。要するに安定度を重視する者は大抵の場合ロザリアを、柔軟性を重視する者はだいたいいつもアンジェリークを推すという形で、どちらの主張も理にかなってはいるものの、今ひとつ決め手には欠けているという状態であった。
 そんな中で、オスカーは常にアンジェリークを支持し、彼女が女王にふさわしいという意見を貫き通す姿勢を見せていた。
 公式の場にあって「守護聖」である間はかえって楽なのだ。自身の中に確固として動かしがたい確信がある以上、それに従って判断を下すのは至極当然のことである。そこに迷いの生じる余地はない。
 問題は、私人としての情が心の隙間へ入り込んでくる、夜や休日のひとときなどだった。

 聖地へ戻っての中間審査で何度目かにアンジェリークが勝ちをおさめた、翌日の日の曜日。オスカーは、もだしがたい渇望に負けて朝から女王候補寮を訪ねたものの、アンジェリークは既に一人で出かけた後だと告げられて、胸の奥底に密かな深い失意を抱えて引き上げてきた。
 誰か他の奴と一緒ではないということが救いかと一瞬は思ったが、逆に彼女が誰かを訪ねて行ったのではないかと思うと、また胸が重くなる。道化だなと嘆息しながら、オスカーは公園の中を聖殿の方へ向かって歩いていた。
 別に、アンジェリークが自分のところへ訪ねてきているのではないかなどと、そんな期待をしたわけではない。最近の彼女は、むしろオスカーから距離を置こう置こうとしているのが明らかだったし、休日に自分から訪ねてきてくれることなどまずあり得なかった。
 本当なら自分の方も距離を置いた方がいいんだろうなと思って、オスカーは自分自身に対して微苦笑を浮かべた。アンジェリークを恋うる気持ちには波があり、今はちょうど、自由に会える今のうちくらい少しでも会っていたいという欲求が強まっている時期だ。度しがたいことだなと大きく息をつき、彼はみずみずしい朝の光に手をかざしながら、晴れ渡った空を見上げた。
 その時、頭の後ろあたりにちりっと小さな違和感が走った。何だ?と思った次の瞬間、ふわっと体中に温かな共鳴が広がる。女王のサクリアだと、すぐにわかった。呼ばれているとも感じられた。ただ、いつも感じている現女王のものとは明らかにその波動の色合いが違う。アンジェリークだと直感した。
 すぐに迷わず公園を出て、森の湖へ向かう小径へ足を向ける。そこに彼女がいると──そこで彼女が自分を呼んでいるのだとの確信が、彼にはあった。

 はたして森の湖には、こちらに背を向けるようにして、ほっそりと小さな姿が滝のほとりにたたずんでいた。
 いつ見ても、一見はかなげなくらいのその小さな体の中に内包された力強くしなやかな輝きに、胸をつかれる思いがする。オスカーは快い波動の共鳴を暖かく胸にいだきながら、唇に微笑みを乗せて真っすぐに彼女のもとへと足を運んで行った。
 ぱきりと足元で小枝が折れる音に、ぱっとアンジェリークが振り返る。彼女を見つめながら大股に歩み寄るオスカーの姿を認めて、その目が大きく見開かれ、信じられないというような表情がいっぱいに広がった。見る見るうちに頬が紅潮し、それからそれを押さえ込もうとする努力が彼女の面を強ばらせ、そしてアンジェリークはきゅっと唇を引き締めて、何かに挑もうとするような緊張をたたえて彼を見た。
「……こっ、こんにちは、偶然ですねオスカー様」
 動揺を隠そうとする努力が明らかな、棒読みのようなその挨拶に、オスカーの中で何かがぱんと弾けた。
 愛しい愛おしいアンジェリーク。あんなに確かで強力な呼び声で彼を絡め取り、ここまで導いてきておきながら、自分で自分の力が信じられないのか、それともそれだけの力を認めてしまうのがこわいのか、あくまでこれは偶然なのだという顔を作ろうとしている彼女がいじらしくて、胸の奥から暖かいものが一杯に湧き上がってきた。
 この上なく力溢れる女王の資質を備えながら、時に心やわらかく初々しい少女の顔となる、そのアンバランスなあやうさが何よりも愛しい。彼女を自分のものにしたいというよりも、自分が彼女のものとしてその身も心もしっかりと包み込み支え守る役目を与えて欲しいとの気持ちが上回った時、ぎりぎりの表面張力で保たれてきた均衡が崩れて、想いが一気に溢れ出すのをオスカーは感じた。
 女王になる存在だから愛してはいけないと、誰が決めた。たった一人愛した相手を、心から慈しみ守ってやりたいと思って何が悪い。幸せな女王をこそ戴こうとすることの、どこがおかしいと言うのだ。
 理不尽さへの怒りでも悲壮な決意でもなく、ただ大きな挑戦を受けて立とうとする昂ぶりだけがそこにはあった。
 女王となるべき彼女が自分を求めてくれるのならば、全てを受け止め全てを捧げ、そして全てから彼女を守ってやることができなくて、何の為の守護聖か。そう思えた瞬間に一切の心の迷いは消え、ただアンジェリークへの愛しさだけがそこに残った。

「偶然ってやつもなかなか粋なはからいをするもんだ──と、そう言いたいところだが、これが偶然なんかじゃないことは、君が一番よく知っている筈だぜ。そして俺もな」
 そう言ってアンジェリークの傍近くまで一気に距離を詰めて行きながら、オスカーは自分の唇がほころび、満面に笑みが広がってゆくのを感じた。確かに何かが吹っ切れて、とどめられ淀んでいた全てが流れ出し動きだす。その感覚はどこか解放感にも似た快さがあって、心身の隅々にまで生気が満ちて躍動するのが感じられた。やっぱりこうでなくちゃなと、おかしさ混じりの充実感に彼の心は高揚した。
 いっそ清々しいくらいの心持ちで、オスカーはにこりと笑ってアンジェリークを見下ろし、どぎまぎと赤くなったり青くなったりしている彼女に向かって腕を伸ばすと、ためらいなくぎゅっとその胸に抱きこんだ。
 びくんと固まり、一瞬一切の動きを止めたアンジェリークが、ややあって小さくうろたえた声をあげ、力なくもがき出す。その形ばかりの、抵抗とも言えない抵抗の力弱さが愛しくて、オスカーは胸を満たす甘い喜びに深い吐息をつきながら、彼女の細い身体を柔らかく抱きしめた。


 アンジェリークは、突然の抱擁に頭の中が白く弾け、何が何だかわからなくなって混乱の極みにあった。
 そもそもこの森の湖に一人で出かけてきたのは、明け方の夢に乱された気持ちを静かな所で落ち着けたいと思ったからだ。
 どこかのテラスのような場所で、星空を背に一人ぽつんと立ったオスカーが、新たに立つべき女王の為に命をかけて力を尽くそうと誓いをたてる、そんな夢だった。彼のことばかり考えているからそんな夢を見るのだとは思ったものの、彼女の心は激しく乱れた。どこか辛そうな目をしながらきっぱりと面を上げたオスカーの姿があまりに鮮やかで、ただの夢だと思いながらも脳裏から消せなくなってしまったのだ。
 だからこの湖にやって来た。朝の引き締まった空気の中で心を落ちつけて、余計なことなど考えずに試験に集中できるようになりたいと思っていた。それが、トウトウと流れ落ちる滝の清冽なきらめきを見るうちに、自分でもどうしようもなく膨れ上がってくる気持ちに圧倒されて、オスカーに会いたいと強く願ってしまったのだ。
 一目でいい、オスカーに会いたい。いつものようにただ軽くからかわれるだけでもいいから、飾らない彼の笑顔が見たかった。しばらくの間会わないようにしようと努めていたその反動だとはわかっていても、流れ出すその願いの力はとてもはっきりと強くて自分でも驚くほどだった。
 それでも彼を本当に呼べるだなんて思ってもいなかった。──アンジェリークとて、「滝が願いを叶えてくれる」なんていう話を信じてはいない。聖地にある本物の滝であればあるいはと思わないでもないが、それを模して作られたこの飛空都市の滝に、そんな力があるとは思っていなかった。会いたい人を呼べるとしたら、それは自分自身の心の力によるものだろう。そんな風にぼんやりおぼろげに思ってはいたけれど、まさか本当にオスカーが現れるなんて……自分にそんな力があるなんて、それだけでも充分に、とても信じがたいことだった。
 そのオスカーに、今自分が抱き締められているということなど、既に理解の域を大きく超えている。アンジェリークはパニックを起こし、自分を抱え込む暖かな腕の中からもがき出ようとしたが、その暖かさはあまりにも心地よく柔らかく彼女を押し包んでくるので、抗う力は急速に失われてゆく。ぼうっと痺れるような感覚に、立っている力まで奪われていきそうだった。

 そんな彼女の頭の上で、オスカーが低く笑う気配がした。
「見守るだけというのはもうやめだ。何より大事な俺のお嬢ちゃんに、自分を抑えて偽るような、そんな顔をさせておくわけにはいかないぜ」
 耳もとにかかるそんな熱い囁きに、アンジェリークの頭は再び一気に沸騰した。
「やっぱり、なるようになるなんていうのは俺の性には合わん。なせばなる──と、そう言い切れないようでは、炎のオスカーの名がすたるってもんだぜ」
 半ば独白のような自嘲めいた笑いを含んだ彼の呟きを聞きながら、アンジェリークはすっかり混乱して、またちょっとだけじたばたともがいた。
「なっ、なっ、なんなんですかいったい…?」
 なんとか普段の自分を取り戻さなければと努めて心をしずめ、もがもがと彼の胸元でくぐもった声を上げる。するとオスカーは晴れ晴れと大きく笑って彼女を放し、代わりにその両肩を軽く抱いて、当惑に赤く染まった彼女の顔を覗き込んだ。
「俺が悪かった。すまなかったなお嬢ちゃん。だがもう俺は肚をくくったから、君は何も心配しなくていい。──君は君で、自分の信じる通りに女王の道を目指せ。俺はそんな君を愛すると、誰はばかることなく公言し、誰よりも君の傍でずっと支えて行ってやる。俺を好きでも、女王を目指していい。女王になっても、俺を好きでいていい。それをとやかく言うような奴がいても、きっと俺が楯になって君を守ってやるから」
 熱く燃える瞳で彼女を捕らえ、切々と訴えるオスカーの告白に、アンジェリークの心臓は一つ大きくドクンと跳ね、それからとんでもない勢いで早鐘のように打ち始めた。自分の耳にしたことが信じられず、滝のほとりで白日夢を見ているだけなのではないかとさえ思った。この人が──他でもないオスカー様が、私のことを「愛する」と言ってくれるだなんて!
「自由な風のような君が、俺は好きだ。どこまでも伸びやかにしなやかに、大きく羽ばたいていく君こそが、何よりも大切だ。だから君は何も抑えず偽らず、そのままに自分らしくあれ。俺が必ず君を守る。約束するよ」
 夢のような言葉が続く。夢でなければ何かの間違いじゃないのかと、頭の中がぐるぐるする。喜び半分当惑半分といった、そんな彼女の反応を見つめながら、オスカーの面に生き生きとした楽しげな笑みが広がった。なんだかとても自信満々なその表情に、惑い揺れるアンジェリークの心にさっと薄く不信の影がさした。

 彼の言葉をそのまま信じてしまっていいのだろうか。もちろん、信じたいことは信じたい。それはもうとっても信じたい。突然ではあったけれども、そこに冗談やからかいの気配などはなかったとは思う。そうは思うのだけれど、素直に受け取ってしまうにはあまりに自分に都合がよすぎるようで、アンジェリークの心は揺れた。
 不安をたたえた瞳でオスカーを見上げると、まっすぐこちらに向けられた強い視線にしっかりと受け止められた。それだけで、彼の真情を疑う気持ちはぱりぱりとあっさり砕けて散り消えていく。それでもなお、やわらかな自我を守ろうとする本能的な感情に、アンジェリークは上目遣いにオスカーを見ながら小さく口を尖らせた。
「わっ、私、オスカー様のことが好きだなんて、そんなこと一言も……」
 そんな精一杯の最後の抵抗も、オスカーの艶やかな微笑みひとつであっけなく溶け去った。
「俺の眼力を甘く見るなよ、お嬢ちゃん」
 オスカーはどこか嬉しそうに得意そうにうそぶいて、既に全身に恋心をあふれさせてしまっているようなアンジェリークを見つめながら笑みを深めた。
「君が俺に心底夢中だってことくらい、わからないようなこのオスカーじゃあないぜ」
 本当なら腹のひとつも立てなければならないような図々しい言いようであるのに、オスカーの瞳があまりにきらきらと嬉しそうに輝いているので、アンジェリークは何も言えずに真っ赤になってしまった。
 その恥じらいに染まった頬と恋の陶酔にけぶる瞳が何よりの答えであったけれど、オスカーは内から溢れる衝動に突き動かされたように、更にはっきりとした言葉を求めて問いを重ねた。
「俺に惚れているだろう…?」
 熱にうかされたかのような、微かに掠れた、甘い甘い問いかけ。いつも強い光をたたえているその眼の中に切ない翳りを見てしまって、アンジェリークは今度こそ完全に降参した。
「………はい……」
 恥ずかしいくらいに掠れて引っかかったような声しか出なかったけれど、次の瞬間息が止まるほどに強く激しく抱きすくめられて、余計なことなど何も考えられなくなってしまった。オスカーの体の熱さと力強い腕、そして全身に響いてくる速い鼓動だけが全てだった。
「……ありがとう」
 囁くように呟くようにオスカーの口からこぼれ出たその言葉は、こんな状況で彼から聞くことなんて想像もつかないような全く飾り気のない素朴なもので、それが逆に彼の真実を伝えてきてくれるような気がして心が震えた。

 やがてゆっくりと抱擁が解かれ、大きくて暖かい手が、頬にそっと添えられた。とても澄んだ青い瞳が熱くまっすぐに見つめてくる。アンジェリークはどきどきと体中を駆け巡って膨れ上がってくる甘い感覚にはちきれそうになりながら、うるんだ瞳を上げて彼の視線を受け止めた。
 オスカーの目がわずかに細められ、どこか切ない微笑みにその唇がほころんだ。そのままゆっくり顔が寄せられ、どきどきが臨界に達して、アンジェリークは思わずきゅっと目を閉じた。
 わななく唇に温かな唇が触れ、すぐにしっかりと重ねられて、光が弾けるように甘く激しい陶酔が体の中を駆け巡った。そのまま喜びの波にさらわれて行きながら、アンジェリークは泣きたいくらいの嬉しさに全身を震わせ、心の求めるままに腕を伸ばしてオスカーの体をぎゅうっと抱きしめた。
 これからもいつまでも、この人を好きでいていいんだ。そう思うと、アンジェリークは何でもできるような気がした。オスカーと共にだったら、きっとどこまでも飛んで行ける。本当に心から、そう思った。


 朝の清澄な光が、木々の間から筋をひいて射し込んでくる。オスカーとアンジェリークは、一つに溶け合うかのように強く固く抱き合いながら、ここから全てが始まるのだという同じ思いを共にしていた。
 軽やかに渡ってゆく風が湖面にさざ波を立てる。その一つ一つが目映い陽光を受けて、祝福のようにきらめいた。



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