暖炉の前で


◇ 暖炉の前で ◇



 今日はちょっと遅くなりそうだから、先に戻っていてくれ──。
 夕刻にアンジェリークの執務室へ立ち寄り、それだけ告げて行ったオスカーの顔がなんだか大層残念そうだったので、今夜は居間の暖炉に火を入れようと思った。

 この常春の聖地では暖炉は飾りみたいなものだ。でもオスカーが好きだから、炎の館の居間にはどっしりと重厚な暖炉があって、いつでも使えるようにきちんと手入れがされている。
 アンジェリークも、この暖炉の前でくつろぐのが気に入っていた。そのことをオスカーが快く受け止めているのも知っている。
 ここしばらくはお互い何かと忙しかったこともあって、わざわざ暖炉に火を入れようという気分にまではなれなかったのだが、今日は久しぶりに火をつけてオスカーを待ちたいと、そう思った。


 結婚してからこちら、オスカーが火をつけるところを何度も傍で見ているから、手順はちゃんとわかっている。
 まず煙突のダンパーを開けて、見よう見まねで炉床に薪を組む。だいたいこんなものかなと思いながらしげしげと検分し、それから暖炉用の長いマッチを擦って、焚きつけに火を近づけた。
 うまくいくかしらとちょっとドキドキしながら見守るうちに、焚きつけについた火が薪の表面を包みこみ、やがて薪に燃え移った。それからしばらく、消えやしないかとじいっと見つめていたのだが、どうやらうまくついたようだ。アンジェリークは、口の中で小さく「やった」と呟き、それから満足そうにくすくす笑いながら火の粉避けのネットを丁寧に閉めた。
 薪もちゃんとうまく組めていたようで、安定した炎が明々と暖炉の中で踊り始める。
 アンジェリークはソファから大きなクッションをいそいそと抱えてきて、ぽんっと靴を脱ぎ捨てると、暖炉の前の毛足の長いラグの上に直接ぺたんと座り込んだ。
 そのまま揺れ続ける炎をぼうっと眺めるのが、彼女は好きだった。
 ラグの脇に置かれた大きなアームチェアに軽く背中を預けながら、オスカーは今頃まだお仕事中なのかしらと思いを馳せる。
 …いつもだったら、この椅子にはオスカーが座っていて、彼女はその膝にもたれるというのが定位置だ。
 彼の大きな手が頭にふわりと置かれる、その感触が好き。彼女の髪の柔らかさを楽しむように、何度もそっと軽く撫でていく暖かな手。無言のうちに、とても大切だよと言われているようで、胸の内からぽうっと暖まる心地になる。その感触を思いながら、アンジェリークは軽く目を閉じて小さく微笑んだ。

 時にはワインとグラスなど携えて、オスカーも一緒にこのラグの上に座り込むこともある。
 そんな夜は大抵、甘いワインと彼のキスに酔ううちに、そのままここで愛し合うことになったりもする。
 それはそれで、身も心もとろけるような喜びではあるのだけれど──
 本当は、一番好きなのは二人で黙って炎を見つめている時だ。
 オスカーに肩を抱かれたまま、どこか厳しい面もちで炎を見据える彼の横顔を窺い見るのが一番好き。
 ただでさえ精悍な面差しが一層ひきしまり、揺れる炎の照り返しを受けて、その髪は正に燃えるよう。恐ろしいほどに鋭く研ぎ澄まされた眼差しは、きっと炎を通してオスカー自身に向けられている。
 そしてそれはきっと、他の誰にも見せることのない、一番その本質に近い彼の素顔だ。その顔を見せてもらえること──少しも覆い飾る必要がないと思ってもらえていることが、途方もなく嬉しい。
 やがて見つめる彼女に気づくと、オスカーの顔はゆっくり緩やかにほころびて、暖かな笑顔が柔らかく広がる。互いの視線が絡み合い、共にいる喜びを分かち合うその瞬間、アンジェリークの心は幸福感にはち切れそうになるのだ。

 オスカーが好き。
 オスカーが好き。
 オスカーが好き。
 何度でも何度でも繰り返し溢れてくるその想いは、まるで彼女自身の鼓動のようだ。
 アンジェリークはぎゅうっとクッションを抱きしめて、想いと共にこぼれ出す幸せな気持ちを噛みしめた。
 結婚してから、なんだか前よりもっともっと、オスカーのことを好きになったみたいな気がする。──きっとそれは、とっても幸せなこと。
 とてもとても…幸せなこと……


 ……あったかくて、気持ちいい。
 そう思いながら、アンジェリークはもっと気持ちよく落ち着ける姿勢を探して身じろぎした。
 頬になんだかとても心地よい暖かさが感じられ、彼女は夢見心地のままにそちらの方へと身をすり寄せた。──と、耳元を苦笑めいた笑いが掠めて過ぎ、同時に体を包み込む力強い腕に軽く揺さぶられた。

「こんな処でうたた寝したら風邪ひくぞ」

 途端にぱっと目が醒めた。
 間近でアイスブルーの瞳がおかしそうに煌めいている。
 既に正装も解いて軽い部屋着に着替えたオスカーが、彼女を腕の中へ抱き込むようにして覗き込んでいた。
「オスカー!」
「ただいま、アンジェ」
 くくっと笑いながら、オスカーがあらためてアンジェリークを膝の上に引き上げながら抱きしめる。アンジェリークは抱えていたクッションを脇へと放り出し、嬉しげにきゅうっと彼の胸に抱きついた。
「お帰りなさい、お疲れさま」
「ああ」
 オスカーは嬉しそうに笑うと彼女の唇の上に二度三度と軽いキスを浴びせ、それから唇を深く重ねて、じっくり味わうように長いキスを奪った。
「…暖炉に火を入れて待っていてもらうってのも、なかなかいいもんだな」
 唇を少しだけ離して、オスカーが笑い含みに囁く。
「例えいい気分で眠りこけられてても、その気持ちが嬉しいぜ」
 からかい混じりの声が肌の上を滑っていって、耳元を甘くくすぐる。アンジェリークは赤くなって身を捩り、上目遣いに彼を見た。
「ほんとかしら」
 眠ってしまったのは事実だったし、照れ隠し半分でほんのちょっと口を尖らせてみせると、オスカーは一声高く笑い、きゅっとアンジェリークを抱きしめて軽く揺すった。
「嬉しいさ。俺の為にやってみてくれたんだろう? 初めてにしちゃ随分うまくできたじゃないか」
 からかうような響きは相変わらずだが、その眼はとても優しい。アンジェリークは一瞬とても嬉しげな笑みを浮かべ、それからふと小さく吐息をついてオスカーを見上げた。
「…ズルいなぁ…」
 思わず漏れた言葉に、オスカーの眉が片方、問うように上がる。
「何が?」
 アンジェリークは顔を伏せると彼の体に回した腕に力をこめて、その暖かな胸の上で呟いた。
「あなたを喜ばせてあげたいなって思うのに、いつでも私の方がずっと喜ばせてもらっちゃってるみたいなんだもん」

 オスカーはいつも、どうすれば彼女が喜ぶかをよく心得ているし、それをごく自然に言葉や行動に表すのがとても上手だ。対するにアンジェリークの方は、彼が何をどう喜んでくれるのかをまだよく知らないと思う。なんだかそれはちょっぴり不公平みたいな気がしてしまうのだ。

「だから、なんだかズルいなあって思うの」
 不服そうにそう言って見上げるアンジェリークに、オスカーの両眉が上がる。ややあって、彼が大きく笑み崩れた。
「…全く…」
 小さくそれだけ呟いて、笑いに瞳を煌めかせながら、オスカーはくしゃくしゃと彼女の髪をなでた。
「………ひょっとして、また子供だなあとか思ってる?」
「まさか」
 彼の笑みが一層深まり、軽く引き寄せられて額に唇が押し当てられた。
「愛しているよ、アンジェリーク」
 嬉しそうなその響きに嘘はない。アンジェリークがつられてにこっと微笑むと、オスカーの瞳がきらりとどこか危険な、彼女にはとても馴染みのある色合いに輝いた。
「だがそうだな、俺を喜ばせてくれると言うんなら──」
 艶やかな意志のこめられた視線を向けられて、アンジェリークは急に、火の前にいる為だけではない熱さを感じ、鼓動が一段高まるのを感じた。
「──まずとりあえず、キスしてくれないかな、奥さん?」
 オスカーの唇が、甘く誘惑的な笑みを形作る。
「それも、とびきり熱烈な奴を」


 …やっぱりオスカーってずるいかも知れない。
 その瞳に吸い込まれるように惹き寄せられて行きながら、アンジェリークはぼんやりと思った。

 でも、そういうのもイヤじゃないけど。

あとがき

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