"I Kiss Your Hand, Your Majesty"


◇ "I Kiss Your Hand, Your Majesty" ◇



「アンジェリーク…本当にありがとう。あなたのおかげで、この宇宙は救われたわ」
 そう言ってにっこり笑うこの宇宙の女王、アンジェリーク・リモージュは、注意深い目で見ればまだほんの少しだけ面やつれしていたものの、その笑顔に曇りはなく、血色も戻って随分と元気を取り戻した様子だった。

 聖地に戻って開かれた祝賀の宴は、新宇宙の女王アンジェリーク・コレットの労をねぎらい謝意を表するものであると同時に、彼女の送別パーティをも兼ねていた。
 一夜明ければ、彼女は長く留守にしてきた新宇宙へと慌ただしく戻って行かねばならない。
 コレットが、未だ揺籃期にある自らの愛しい宇宙を一時補佐官の手に委ね、自身の命をも賭してこの宇宙を救う闘いに身を投じてくれたことを、自分は決して忘れまい。アンジェリークはそう思い、心からの微笑みを浮かべてコレットを見た。

 自分もまたこの宇宙を我が身よりも愛しいと思い、虜囚となりサクリアを奪われ続けた自分自身の苦痛にも増して、傷ついた宇宙を想って心を痛めて来たのだ。コレットは何も言わないけれど、いつ終わるとも知れない長い旅の間、半身にも等しい宇宙から遠く離れて、辛くなかった筈がない。
 それを乗り越えて力を尽くしてくれたことへの感謝と共に、同じ女王であるからこそ分かる彼女のその痛みを思い、アンジェリークはコレットの手を取ってぎゅっと握った。
「つらいことがあったら、旅の日々を想い出してね。きっと新しい勇気が湧いてくるはずよ。私も…忘れないわ。あなたが、この宇宙のために、命をかけて闘ってくれたこと。…ありがとう」
「──陛下」
 コレットの瞳に理解のきらめきが宿る。二人の女王は瞳を見交わしながら、互いの間だけに真に通じ合う共感に、しっかりと手を握り合って微笑みを交わした。
 傍らに立つロザリアが、にっこりとコレットに笑いかける。
「今夜は、あなたと宇宙のためのお祝いよ。ささやかだけど、楽しんでもらえると嬉しいわ」
「ええ、ロザリア様」
 コレットは彼女へ頷き返し、それからアンジェリークに丁寧に一礼して、会場に散らばる守護聖や仲間達の中へと立ち混じって行った。

 アンジェリークはそんな彼女の姿を見送ると、ほうっとごく小さな吐息をついて玉座に身を沈めた。ロザリアが、気づかわしげにそっと囁きかけてくる。
「大丈夫?」
「ええ、平気。思っていたよりずっと早く体力も戻ってきているし、心配ないわ。ありがとう、ロザリア」
 にこりと見上げてくるアンジェリークを、容赦のない目でしげしげと観察してから、ロザリアはようやく目もとを和らげて微笑んだ。
「そうね、でも疲れたらすぐに言うのよ。後のことはわたくしがきちんと仕切りますからね」
「ありがと。でもまだ平気よ」
 くすくす笑うアンジェリークは、会場の中ほどで言葉を交わし合うコレットとランディの姿にふと目を止めた。
 しばらくにこやかに言葉を交わし、それからランディが彼女をダンスに誘って踊りの輪の中へと導いてゆく。楽しげに笑いながら踊る二人が、時折ひどく思いつめたような視線を絡ませ合っていることに気付いて、アンジェリークは微かに瞳を曇らせた。
 見ているうちに、二人は一曲だけ踊って輪から離れ、それからほんの少しだけ物言いたげに見つめ合い、そして次の瞬間、共にいつもの明るい笑顔に戻って、それぞれ他の者たちとの談笑へと戻って行った。

(あの子…それにランディも──)

 聖地での女王試験の間に、あの二人が淡い想いを育てていたことには気付いていた。それでもコレットは女王として新宇宙に赴き、そしてランディはこの宇宙で風の守護聖としての責務を変わらず黙々と勤めてきたのだ。
 彼等の間にどんなやりとりがあったのかはわからない。そして今回の事件で再会し、共に闘いの日々を送り…どのような想いをあらためて育てて行ったものか。
 そうして、明日には再び別れのときが来る。
 宇宙への愛と、大切な人への想い。果たさなければならない責務と──果たし得ない夢。

 アンジェリークは、胸の奥底に他人事とは思えない小さく鋭い痛みを覚えた。
 かつて、炎の守護聖に想いを打ち明けられないまま女王位につくことを決意した赤いリボンの少女が、心の扉の最奥で、まだその胸を震わせている。いつか、どちらかがその任を果たし終えて聖地を去る時には、せめて気持ちを告げることだけはできるだろうか。告げることで、この心は解放されるのだろうか。
 それまでは、彼の臣下としての忠節を、女王としての笑顔で受けるだけ。
 …そんな笑顔にも、すっかり慣れてしまったけれど。

 仲間たちの間で明るい笑顔を振りまいているコレットと、そんな彼女を密かに目で追うランディのせつなげな視線に、胸が詰まる。そうこうするうち、会場をぐるっと一巡りして仲間たちともひと渡り言葉を交わし終えた様子のコレットが、人の波から離れて一人そっと吐息をつくのがわかった。
 アンジェリークは、思わずきゅっと唇をひきしめた。
 ふっと顔を上げてこちらを見たコレットを目顔で差し招くと、アンジェリークは声を低めて彼女に囁きかけた。
「…誰とは言わないけど、あなたと二人きりでお話ししたがっている人がいるみたいよ。ほかの人にはうまく言っておいてあげるから…外に出てごらんなさいな」
 そう言うと、コレットはびっくりした様子でアンジェリークを見上げてきた。アンジェリークが微かに頷いて見せると、彼女は海の色の瞳にせつない光を宿し、口元にちらりと微笑みらしきものを浮かべて小さく頷いた。
 小さな背中に緊張を漲らせて、コレットが大扉の方へと向かう。ランディが決意の色も明らかに早足でそれを追っていくのを確認すると、アンジェリークはロザリアにちょっと目配せして、ジュリアス達が談笑している方を見やった。
 ロザリアはすぐに察して、滑るような足取りでそちらの方へ歩み寄り、優雅な微笑みを浮かべてジュリアスに話し掛けた。ややあって、ジュリアスが鷹揚な仕種でロザリアに手を差し伸べ、二人は流れるように踊りの輪へと加わって行った。
 それとほぼ同時に、ランディとコレットが大扉の向こうへと姿を消す。アンジェリークはほっと吐息をついて、あの二人がちゃんと心のままに語り合えることを心から願った。

「──お疲れではありませんか、陛下」
 低くかけられた声に弾かれたように振り向くと、いつの間にかオスカーが玉座の傍らへと来ていた。柔らかい笑みを投げかけてくるオスカーは、なんだか以前よりも精悍さを増したようで、アンジェリークは覚えずどきりと胸を高鳴らせた。
「ええ、大丈夫。…あなたは踊らないの、オスカー?」
 するりと思わず滑り出したような彼女の言葉に、オスカーは低く笑った。
「パートナーにと望む相手は高嶺の花ですし、そもそもまだ本調子ではなさそうなのに無理にダンスに引っ張り出しでもしたら、後から補佐官殿に叱られちまいそうですからね」
 オスカーはどこまで本気なのかわからないようなしれっとした顔でそう言うと、ほのかに頬を染めたアンジェリークを後目に、大扉の方へと考え深げな視線を投げた。それから彼は、ダンスフロアのジュリアスとロザリアに目を向けて、うっすらと微笑んだ。
「特にダンスになど引っ張りだされなくとも、ジュリアス様も見て見ぬ振りをなさったでしょうが。──それでも、口実を設けてもらったことには内心補佐官殿に感謝しておられるでしょうね」
「ああ…そうだったの」
 アンジェリークはちょっとほっとしたように、そっと口の中で呟いた。オスカーはそんな彼女を見て微笑み、それからくすりと小さく笑った。
「多分、気付いていない者はないでしょう。本人達はどう思っていたか知らないが。心底好き合っているのが明らかで、痛々しいほど純粋で…誰もが心の底で応援していたんですよ、あの旅の間中」
 会場を見渡すと、彼のその言葉を裏打ちするように、守護聖たちも元教官らも一様に好意的なまなざしを二人が消えていった扉の方に向けて、少しせつないような笑顔であれこれ言葉を交わしている様子だった。
 オスカーもまた、旅の日々に思いを馳せるように、口元に優しい笑みを浮かべた。
「…いい娘ですね。困難に屈せず勇敢で、優しくてしなやかに強い。辛い時にも笑顔を絶やさず、いつも仲間のことを第一に気づかっていた。それにランディの奴も、今度のことで随分と逞しく成長しましたよ。恐らく大切な相手を守りたいという気持ちが、あいつを一歩大人にしたんでしょう。──あの二人なら、例え遠く離ればなれになったとしても、互いを信じ未来を信じ、きっときちんと乗り越えて行ける。俺はそう思います」
 安心させるように語るオスカーの口調には、アンジェリーク自身を気遣いいたわるような響きがあった。臣下の礼を崩そうとしないオスカーが、あくまで女王としての自分を気づかってくれているのだとしても──微かに胸は痛むけれど──それでも彼の心遣いは嬉しいと思った。
「よかった。あなたにそう言ってもらえるようなら安心ね」
 口に出してはそう言ってにっこり笑う彼女をしばし見つめ、オスカーはほんの少し目を細めた。
「……あなたもまた、辛いときでも笑顔を絶やすことはない。違いますか」
 低く呟く声は、なんだか怒っているようだった。だが、アンジェリークが戸惑いの色を浮かべたのを見ると、彼はふっと息をついて苦笑した。
「いや、あなたを責めているんじゃない。ただ自分が許せなかっただけです」
 オスカーは髪をかきあげて自嘲的に薄く笑うと、気持ちを切り替えたように強い瞳でアンジェリークを見据えながら、すっと玉座の足下にひざまずいた。

「俺は一度、あなたを守ることに失敗した。守りきれずに、辛い思いをさせた。だが──いや、だからこそ、俺はあらためてここに誓う。二度とあなたに、ひとりで孤独に戦わせたりしない。辛い思いを隠した笑顔を、浮かべさせたままにはしておかない。このオスカーに、その役目を許して頂けますか?」

 オスカーの少し辛そうで真摯な言葉に、アンジェリークはほんの少しほろ苦く微笑んだ。
 彼の誠意は疑わない。そのこと自体はとても嬉しい。ただ、自分が欲しいのは女王への敬意や忠心ではなく、一人の女性に対する彼の真心というだけ。そしてそれは自分には過ぎた望みなのだ。
 それだけのこと。とてもシンプル。
 アンジェリークは、もはやすっかり馴染んだ貴婦人らしい微笑を口元に浮かべて頷くと、オスカーが差し伸べた掌の中へするりと自らの手を与えた。
 透明なその微笑に、オスカーは一瞬瞳にきらりと鋭い光を浮かべたが、黙ってそのまま恭しく彼女の華奢な指先に唇を落とした。
 それはいかにも敬愛する女王に忠誠を誓う騎士の振る舞いにふさわしく、アンジェリークの心に一抹の淋しさをも落としていった。

 ──だが、微笑みながらアンジェリークがそっと手をひこうとしたその瞬間。オスカーの手にぐっと力がこもって彼女を引きとどめた。
「離れていた間、あなたの夢ばかり見ていた」
 ごく低く囁くように紡がれる言葉に、アンジェリークはどきりとして頬に血を上らせた。ひざまずいて手を取った姿勢はそのままに、オスカーの瞳には臣下としての礼儀など露ほども感じさせない、挑戦的な光と情熱の炎とが同時に宿ってきらめいていた。
「いや、本当はもっとずっと前から、同じ夢ばかり見ていた。こうしてあなたの手に口づけ、そして不遜と知りつつその唇を請い求める夢だ。眠りの中にあっても、抱き寄せればかき消える儚い幻とはわかっていて、それでもなお抱き締めずにはいられなかった。ならば、目覚めている今、同じことを願ったら──あなたはやはり霞と消え去るのか。それが知りたい」
 口早に告げられる密やかな囁きに、アンジェリークの胸は轟くように高鳴った。
 きっとこれこそが夢。そう思いながら、オスカー以外の全てが遥かに遠のいてゆく心地がする。
「アンジェリーク。一度はこのまま失われるのかと、胸が裂かれる思いに苛まれた。きっと救い出せると一縷の望みを繋ぎながらも、生きた心地もしなかった。こうして無事に取り戻せた今、俺はもう二度と自分の心を偽りたくはない。──愛している。この命をかけて」
 オスカーは熱っぽく囁いて、やにわにくるりとアンジェリークの手を裏返すと、その掌に素早く唇を埋めた。
 まるで電流が走ったような衝撃だった。

 女王として、手の甲や指先に、敬意のキスを受けたことなら何度もある。
 でもこれは…全然違う。炎のように熱いオスカーの唇を掌に受け、彼の熱情の全てが一点から注ぎ込まれるかのようだ。
 オスカーの唇が僅かに蠢き、舌先が微かに肌に触れる。そこから広がるエロティックな痺れに全身が熱くなるのを感じて、アンジェリークは小さくおののいた。

 オスカーはすぐに唇を離し、抑えた情熱にきらめく瞳でアンジェリークを見上げた。
「この公の場で、困らせるような振る舞いに出るのは本意じゃない。──だがもしも、俺を受け入れてくれる意志があるのなら、今夜窓のほとりに一つだけ灯りを点して待っていてくれ。全ての灯りが消えていたら、望みはないものと諦める。だが…」
 オスカーは一旦言葉を切って、ニッと小さく不敵な笑みを浮かべた。
「あのお嬢ちゃんにご自分の夢を託すのもいいが、夢は自分で実現しちまった方がいい。そうは思われませんか、陛下?」
 彼女に想われているということも、共に愛を紡いでゆく未来が実現することも、てんから疑ってなどいないものらしい。自分がこうと思い決めたからには闘いとってみせるという意志と自信に満ちたその笑顔に、アンジェリークは泣きたいような笑い出したいような気分になった。
 この人が好き。その強い思いが、どうしようもなく突き上げてくる。
 オスカーは、そんなアンジェリークの手をもう一度軽く握り締めると、どこか悪戯っぽい光を目に浮かべたまま立ち上がり、それから完璧な作法で恭しく一礼して御前を辞した。


 彼と入れ代わるようにして、ロザリアがアンジェリークの元へ戻ってきた。
 オスカーの満足げな表情と、仄かに頬を染めて心ここにあらずといった風情のアンジェリークとを見比べて、ロザリアの柳眉がぴくりと動いた。オスカーがそれを認め、キュッと綺麗なウィンクをロザリアに投げて下がってゆく。呆れたようにその後ろ姿を一瞬見送って、ロザリアはアンジェリークにうろんそうな視線を向けた。
 アンジェリークは、そ知らぬ顔を作ろうとして失敗し、耳まで真っ赤になって俯いた。
(…全く、隠し事のできない子なんだから)
 ロザリアは内心でちょっとだけため息をつき、そんな女王のフォローに奔走することになるだろう近い将来を予想して苦笑した。
 それでも、それは決して苦にはならないことだろう。──アンジェリークが至高の玉座についてから初めて、その瞳に女王候補であった頃のような生気のきらめきが戻ってきていることに、ロザリアはしっかりと気付いていた。

 ランディとコレットの二人もまた、会場に戻ってくる様子はない。
 二人のアンジェリークのそれぞれの幸福と、そのことが約束する筈の二つの宇宙の幸福を心から願い、ロザリアはゆるやかに微笑んだ。


あとがき

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