CALVADOS


◇ CALVADOS ◇




 今夜はいい風が吹いている。しっとりと芳しい、ひとの気持ちを柔らかくほぐしてくれるような風だ。

 メイクを落としてさっぱりとし、気に入りのアロマオイルを落としたぬるめの湯で十分にリラックスして、派手やかな夢の守護聖からただのオリヴィエに立ち戻るこの時間が、彼はとても好きだった。
 長い時間をかけた半身浴で身も心もくつろいで満足し、湯からあがったオリヴィエは、シンプルで飾り気のないこざっぱりした部屋着を身につけてバルコニーに出ると、木々の間を抜けてくる爽やかな夜風の芳香を胸一杯に吸い込んだ。
 今夜は、特に気分がいい。
 彼はバルコニーの手すりにもたれるようにしながら、木立のシルエットの向こうにかかった月を見上げ、冴え冴えと輝く細い月から届く光に手をかざしてみた。満月の夜のたっぷりと豊かな月光に比べると、ずっと淡く遠慮がちと言ってもよいような色合いではあるが、これはこれでまた違った趣きがあっていいものだ。
 オリヴィエは、この月の色とやわらかにそよぐ風との調和が気に入った。そして、その中に立つ自分自身もまた、その調和を乱さぬ存在であるということに、一人小さく満悦の笑みを浮かべた。

 陽光のもと、入念なメイクを施して、色とりどりのシルクやフェザーで華やかに装うのも、こうして生地そのものは極上だが、ごくシンプルな服をまとって夜気の中に一人たたずむことも、どちらも自分という素材を最高に生かすよう演出しているという点では変わりはない。自邸でくつろぐスタイルにおいても、一切手抜きをするつもりなど彼にはないのだ。そんなことは、自分の美意識が許さない。
 ──人生は舞台のようなもの。幕が上がって降りるまでの一時の夢だ。ならば、最高の演出に徹した最高の舞台をこそ、演じ切りたいものではないか。
 常に美の追求者であろうとする、この緊張感は自分に心地よい。心地いいことは好きだ。だからそうする。それだけのことだ。


 …それにしてもいい月だ。こんな夜は、軽く酔ってみるのもまたいいだろう。


 オリヴィエは、髪を軽くはらうとバルコニーを後に室内へと戻った。
 キャビネットに並んだ酒の中から、既に封の切られたいつものブランデーに手を伸ばしかけて、彼はふと気を変えた。
 こんなにいい風と月と夜の香気には、もっとふさわしい酒がある。
 オリヴィエは自分の思いつきにちょっと満足げな笑いをもらしながら、カルヴァドスのほっそりと洒落た瓶を手にとった。

 その深い琥珀色は普通のブランデーと変わらないが、封を切った瞬間に淡く立ち上る甘い香がはっきりその個性を主張している。それは、秋の実りを寿ぐ歓びの歌にも似て、胸を踊らせるものでありながらもすっきりと心に染みいる香りだ。
 一旦遠のいたかと思いきや、グラスに注ぐ時、また口元に運ぶ時にもその爽やかな甘い香りは一瞬だけ軽く漂い、そしてまたふぅっとかき消える。まるでとらえどころのない愛らしい妖精のようだ。
 口に含んだ瞬間のまろやかな口当たりを追うようにして、火酒独特の強い刺激が広がる。それなのに、舌の上で転がしていると、またほのかな甘さが蘇って、再び微かにりんごの香がたつのだ。
 甘ったるい酒は好きではない。きついだけの酒も好みではない。この微妙な香気と甘さが、強い火酒の中に同居しているそのバランスがいい。


 ふと、この酒はアンジェリークに似ているなと思った。
 この香りの爽やかな甘さは、彼女の笑顔を連想させる。そう思ってから、あの金髪の女王補佐官にベタ惚れの悪友の顔を思い浮かべ、オリヴィエはおかしそうにくすくすと笑った。
 そんなことを口にしたら、あの赤毛の同僚は何と言うだろう。独占欲を剥きだしに、人の恋人を酒にたとえて喜んだりするなとでも言うだろうか。それとも得意満面で、おおいにノロけてくれるだろうか。
 多分、惚気の方だなと思い、オリヴィエは笑いながらグラスを満たした。
 やっぱり言うのはやめておこう。ただでさえあの二人には日頃から当てられてばかりいるのだ。わざわざこちらの方から、あの赤狼が大喜びで恋人自慢を始めるネタを振ってやることもないだろう。

 オリヴィエは、窓の向こうに浮かんだすっきり美しい三日月に向かって、軽くグラスを掲げた。
 可愛げの無い友と、愛の天使と呼ぶにふさわしいその恋人の幸福を、心から祈って。


 さわさわと、梢を渡る風が鳴る。
 ──今夜の風は、甘いりんごの香りがした。



あとがき



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