ある休日の情景


◇ ある休日の情景 ◇




 どうにもついていない日、というものはあるらしい。

 何となく目覚め際の夢見がよくなかったような気がするとか、顔をあたっている時に一瞬手元がおろそかになりかけてひやりとしたとか、朝のコーヒーが好みの温度よりもほんの少しだけぬるかったとか。
 一つ一つはとりたててあげつらうほどのことでもないのだが、それがいくつも重なるとなると、さしものジュリアスといえども何となく重たい心持ちにもなろうかというものだ。

 以前にルヴァが何やら言っていた記憶があるが、世間には「ベッドの悪い側から起きる」という表現があるらしい。自分は別段縁起などかつぐ質ではないとはいえ、こうして朝からどうもついてないような日ともなると、そのような言いように紛らわしたくなる気持ちもわからぬではない。
 ──とはいえ、今日も常と変わらぬ起床であったろうとは思うのだが。さて、今朝はどちらの側にもよくない卦でも出ていたものか。

 そんな自分の詮無い考えに小さく苦笑をもらしながら、ジュリアスは乗馬服に身を包み、鞭を小脇に手袋をはめながら厩舎へと向かった。


 今日は久しぶりにオスカーと朝の早駆けの約束をしているのだ。聖地へ戻ってからこちらというもの、休日といえどもなかなかその機会を設けることができずにいたが、昨夕執務を終える頃に、珍しく彼の方から誘いの言葉をかけてきた。
 たまの休みの時くらい、ゆっくりアンジェリークと過ごしたかろうと思って、このところジュリアスからは言い出さないようになっていたのだが。…オスカーも彼なりに、気をつかっているのだろう。

 愛らしいあの補佐官がまだ女王候補であった頃、ジュリアスは彼女と共に過ごす時間に何か暖かな温もりに似た心地良さを感じていたものだった。それは決して、恋慕と呼べるような種類の感情ではなかったものの、それでも人となってからジュリアスに初めて訪れた温もりではあった。
 一方で、長く自分の片腕であり互いに最も近しい理解者でもあったが故に、オスカーの彼女への秘めた想いにも、彼は早くから気付いていた。公的には守護聖と女王候補という彼等の立場を鑑み、首座として諌めねばならない立場ではあったが、私人としての彼の心は、年若い友の苦しい恋が実るといいと密かに感じていたものだ。
 だからジュリアスにとって、アンジェリークの心がオスカーへと急激に傾いていくのを見ること自体は、辛いというほどのことではなかった筈だった。
 ただ、一抹の寂寞感は確かにあったと思う。
 彼がオスカーの気持ちに通じていたのと同様に、オスカーの方も彼のそんな微かなもの寂しさに気付いていたのだろう。見かけによらず人を思いやる気持ちの細やかなあの男のことだ。ジュリアス自身の負担にはならない程度に、たまの気晴しに付き合おうというのだろう。その心づかいが、嬉しくもあるが何か面映ゆい心地もする。
 そんなことをつらつらと考えながら厩舎へ着くと、オスカーは既に来ていて、実に屈託の無い笑顔で挨拶をよこしてきた。ならば、彼の好意に甘えるのも時にはよかろうと思い、ジュリアスは久々の早駆けを存分に楽しむことにした。

 いつもの愛馬が少々体調を崩していると馬丁に告げられ、やむなくその次に気に入っている馬を引き出して鞍を置く。
 やはり今日はあまりついているとは言えないようだと、ちらりと苦笑が頬をよぎるが、いざ走り出してしまえばそのような感慨も遥か彼方だ。
 乗馬鞭を携行しているとはいえ、彼がそれを使うことはほとんどない。膝で馬体を締めるその加減と軽い手綱捌きだけで乗騎をあやつる。少し先を走るオスカーもまた、人馬一体となった実に見事な騎乗を見せていた。
 走るうちに朝からの何かしらもやもやとしたような気分も吹き飛び、ジュリアスは晴れ晴れとした気持ちでいつもの崖の手前で手綱をひきしめた。
 上気した顔にあたる風が心地よい。ジュリアスは、傍らに愛馬を留め、首を叩いてねぎらってやっているオスカーを見やって、常のようになにげなく言った。
「よければこのあと館へ寄ってゆかぬか? 昼食をとってから久しぶりにチェスなどどうだ」
「いえ、せっかくですが午後は約束がございますので」
 オスカーは、飾らない笑みを浮かべながら即答で辞退した。
 ああそうかと思いながら、ジュリアスは薄く苦笑した。
「アンジェリークか」
「はい」
 にこりと笑うオスカーは、アンジェリークへの愛情を面に表わすことに躊躇しない。
 そういうオスカーであるから、彼から早駆けの誘いをしてきた以上、とりたてて気にやむこともないのだろうが、それでも恋人同士のひと時を邪魔してしまったような、微かな後ろめたさが胸中をよぎる。
「では戻ろうか。──つきあわせてすまなかったな」
「いえ。こいつも久々にのびのびと走れて喜んでいますし、俺も楽しみましたから」
 愛情をこめて軽く馬の首を叩いてやりながら、オスカーは気軽に笑った。
「あまり、お気になさらず。アンジェリークもわかっておりますし」
 またオスカーに気を遣わせてしまったかと思いながら、ジュリアスはただうなづくと馬首をめぐらせた。


 帰路は馬を並べて軽く駆けさせながら、炎の館の方を廻って光の館へと通ずるルートをとった。
 その道筋は途中から、補佐官邸から炎邸への道に重なる。
「──アンジェ?」
 遠く前方に見慣れた小さな姿を認めて、オスカーが低く驚いたような声を上げて軽く馬腹を蹴った。

 後方からたちまち追いすがる蹄音に、アンジェリークがくるっと振り向いてパッと華やいだ笑みを浮かべる。少し遅れてジュリアスが近づいた時には、オスカーは既に馬から飛び降りて、走りよってくる恋人の華奢な体をその胸に受け止めているところだった。
「どうしたんだ、こんなに早く。迎えに行くと言ったろう?」
「うふふ、あのね、マフィンがうまく焼けたの!」
 それ以上正当な理由はないだろうと言わんばかりに得意げに、アンジェリークが手にしていた小さなバスケットをオスカーの目の前に差し上げて見せる。
「くるみ入りよ! とっても上手に焼けたのよ」
 そう高らかに宣言してオスカーを見上げた、いかにも嬉しそうな笑顔のまま、アンジェリークは馬上のジュリアスを振りあおぐようにしてにこやかに挨拶した。
「こんにちは、ジュリアス様! よかったら一緒にいかがですか、まだあったかいですよ」
 輝くようなその笑顔を少しまぶしげに見て、ジュリアスは苦笑した。申し出自体は嬉しかったが、自分もそこまで無粋な男ではない。
「──いや、せっかくだが遠慮しておこう」
 短く返す下で、馴染みの寂寞感がひっそりと胸をかむ。アンジェリークは小首をかしげてジュリアスを見上げ、それからちょっと残念そうにうなづいた。
 オスカーがその肩を抱いたまま、少しあきれたような声で言う。
「それにしても、館からここまで歩いてきたのか?」
「だっていいお天気だったんだもん。それに途中でオスカーに会えるかなーって思ってたし。この道で会えたら、下の小川の方に降りてそこで一緒に食べれるじゃない?」
 あっけらかんとした返事に、オスカーは軽くため息をついた。ここから炎の館までは、徒歩ではまだまだ遠いのだ。
「俺達がこのルートを使わなかったらどうするつもりだったんだ。俺の館までずっと歩いてくるつもりだったのか?」
「でも会えたじゃない」
 にっこりと天使の笑顔で返されて、オスカーは黙って天をあおぐ。アンジェリークは、にこにこと嬉しそうに続けた。
「せっかくいい所で会えたんだもん、川の方へ行ってこれ食べない? ちゃあんと飲み物も持って来てるのよ?」
「…しかたのないお嬢ちゃんだな」
 苦笑混じりに、それでも愛しくて仕方なさそうな笑顔をアンジェリークに向けるオスカーを見下ろしながら、ジュリアスは居心地の悪さを軽い咳払いに紛らして、馬上から二人に向かって言った。
「では私はこれで失礼する。それではな、オスカー。アンジェリーク、今朝はオスカーを借り受けてすまなかったな」
「すみません、ジュリアス様」
 オスカーがアンジェリークを抱いたまま、悪びれない笑みを向けてくるのへうなづき返し、ジュリアスは馬に合図を送ってその場を歩み去った。

 しばらく馬を進めてからなにげなく川辺の方へと目をやると、オスカーがアンジェリークのバスケットを片手にもう一方の手で小さな肩を抱き、彼の愛馬はすっかり心得たように手綱もとられずにとことこと二人の歩みを追って歩いていく姿が遠く認められた。
 一幅の絵のようだと、ジュリアスは思う。だがその一方で、何かやるせなく心寂しいような気持ちに沈んでいく心をも、抑えきれない。
 別に、アンジェリークの心を独占しているオスカーに嫉妬心を抱いているというわけではないと思う。睦まじい恋人ぶりをうらやむというのとも、少し違う。ただ、自分の中に満たされない空洞があることを自覚して、ほろ苦い気分になるだけだ。
 このような、なんとなく憂鬱な気持ちを抱えたままに、館へ戻りたくはなかった。ジュリアスは、まっすぐ光の館へと通ずる道から離れ、林間の細い道をぬけて聖殿を臨む丘の方へと馬を進めた。


 あまり通ることのないその道をゆっくりと辿りながら、ジュリアスは鬱々と自分の長い生について思いを巡らせた。
 幼い頃より長く光の守護聖としてこの聖地にあり、その他の生についてなど、日頃はとりたてて考えることもない。だが、彼にもいずれ確実にサクリアの衰えというものは訪れる。ただ人となって聖地を下がり、恐らくは生家の子孫筋にあたる一族のもとへ迎えられる形で、主星へと戻ることになるだろう。
 そしていずれは、元々のその家格にふさわしい家柄の娘を娶って子をなし、一族の繁栄を約束する、新たな家系の祖となる──のだろう、恐らくは。
 特に疑問に思ったこともないその漠然とした未来図が、なぜ今日に限ってこうもうとましいような気持ちになるのだろう。
 物思いにふけりながら林の中を抜けていくうちに、ジュリアスはわき道へそれてみる気になった。なんとなく、いつもとは違うことをしてみたくなったのだ。

 これまでよりも更に細い小径の下草を踏みながら木々の間を抜けると、いきなりぽっかりと空間が広がった。
 木立が切れた向こうに、小さな美しい泉がさんさんと降り注ぐ陽を受けてきらめいている。なんと、このようなところもあったのかと意外に思いながら、気持ちよく乾いたその空間に出て、ぐるりと見回す。と、前方の木陰でむくりと人影が動いた。
 影に同化していたかのような黒っぽいその姿が、白馬にまたがったまま日差しの中に立つジュリアスに向かって、無言のままうっそりとうろんそうな視線を投げてくる。馴染みといえばこれ以上馴染みのものはないその姿に、ジュリアスは胸中で深いため息をついた。

 …やはり寄り道などはせず、まっすぐ館へと戻るべきであったか。

 ジュリアスは、これは全く今日という日はとことんついていないに違いないと、げんなりした気分を抑えられずに、その秀麗な眉をひそめた。
「──クラヴィス。こんなところで何をしている」
「………別に、何も」
 クラヴィスはちらりとジュリアスを見返して、それですっかり興味を失ったと言わんばかりに、再び影の中へと身を沈めた。ジュリアスはついいつものように馬上からなじりかけたが、非難の言葉が口をつく寸前に、この場への闖入者は他ならぬ自分の方だったと思いいたって口をつぐんだ。
 既にクラヴィスの瞳は半ば閉ざされ、一見眠っているようにさえ見える。このまま馬を返して立ち去ろうかとも思ったが、ジュリアスはふと気を変えて馬を降り、陽のあたる下草の上に腰を降ろしてみた。
 クラヴィスの眉が片方、大きく上がった。
「……何をしている……」
「別に何も」
 先のクラヴィスの口真似で返すと、今度は両の眉が跳ね上がった。なんとなく、妙におかしい気分できらめく泉の水面を眺め、それからぽっかりと木立に囲まれて切り取られたような青い空を振り仰いでみる。

 本当に、特に何も考えていたわけではない。ただ単に、この美しい小さな空間の中に溶け込んでみたかった。それだけだ。
 常の自分ならば決して思わなかっただろうことではあるが、どうせ今日は自分らしくもない欝屈とした想いに囚われて、ずっと調子が出ないのだ。この際少々変わったことをしてみたところで、これ以上事態が悪くなるとも思えない。
 ジュリアスはふっと軽く息をついて、背後の木にもたれかかってみた。

 なるほど、この視点まで降りてきてみると、すっぽりとこの小空間の中に包みこまれるような、意外な安らぎが感じられる。馬上から見たときには単に自堕落としか映らなかったクラヴィスの姿勢も、この一体感を求めてのものだったのだろうか。そう思って彼の方を見やると、影の中から不審げなまなざしを投げてくるクラヴィスと目が合った。
 ほとんど無表情なその面に、うっすらと驚きの色が宿っているのを認め、ジュリアスはくすりと小さく笑った。それを受けて、クラヴィスがわずかに眉を寄せる。
「…何だ」
「別に」
 答えながら、これではいつもと逆だなと、更におかしさがこみあげた。クラヴィスはもう一度眉を上げると、ジュリアスのことは無視しようと決めたように、また半眼になって一層深い影の中に溶けいった。
 ジュリアスの方も彼から目を離し、丸く切り取られた空を見上げて、目を細めて溢れる光を一身に受けた。

 美しく気高い彼等の女王の瞳を思わせる、わずかに藤色がかった青い空を、光に透けて輝く緑の葉が取り巻いている。そのまま目を閉じると、聖地全体をつつむ大いなるそのサクリアが、静かに魂の奥底へと染み入ってくるのが感じられた。
 謁見の間で間近にその存在を感じる時とも、また星の間での光のサクリア解放時に共鳴のうねりを感じる時とも、どこか異なるその暖かな感覚は、心の細かなひだに分け入ってきて、しっとりと癒してくれるかのようだ。
 先程来の空虚な思いが急速に薄らいでゆくのを感じながら、ジュリアスは目を開いて、相変わらず身じろぎひとつしないクラヴィスを見やった。

 なんとなく、クラヴィスの方もたった今、不快な状態を脱したところだというように感じられる。してみると、今日の自分の不調が彼にも影響を与えていたものか。あるいはその逆であったのか。
 ──ほぼ同時期に守護聖となり、対になる力の常として恐らく同時期にその役目を終えるのであろう自分の半身は、最も遠くにありながら最も近しい存在でもある。それゆえに反発も強いが、互いに及ぼし合う影響もまた強い。
 望むと望まざるとに関わらず、自分達はこのようにして長い長い時を超えていかざるを得ないのだ。難儀なことではあるなと、ジュリアスは薄く笑った。

 だが少なくとも、道連れだけはいるということか。
 共にいて楽しいという相手ではないが、それはお互い様というものだ。これから先もこの男とは反発しあい、対立しあいながら、それでも同じ時を共に歩んでゆくのだろう。
 それもまた悪いものではないと、今のジュリアスにはそう思えた。


 木の間を抜けてきた風が小さな花をそよがせ、泉の面に微かなさざ波をたてる。それが再び静まってゆくのを見つめながら、ジュリアスは低く笑った。
「全て世はこともなし、か」

 クラヴィスがゆっくりと目をあげた。深い叡智を湛えた夜の色の瞳が、ふと奇妙な理解と共感に和らいだ。

「……そのようだな…」

 低くつぶやくようなその応えに、ジュリアスもまた、ゆったりと笑ったのだった。


あとがき



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