頌栄


◇ 頌 栄 ◇




 聖地から飛空都市へと戻ってくると、ほっとするのは何故なのだろう。
 午後の穏やかな陽射しに包まれた聖殿を見上げながら、リュミエールはそっとひそやかな吐息をついた。
 どちらかと言えば、彼はそれほど頻繁に聖地からの呼び出しを受ける方ではない。それだけに、たまに聖地に戻ると空気の中にピンと張り詰めた切迫感がいや増しているのが殊更に感じ取られて、胸が詰まるような心地がする。──それほどまでに女王陛下のお力が限界に近づいているのかと案じられ、自分達が支え守るべき女人の細い肩にかかっているであろう重荷を思って胸が痛むのだ。
 対するに、飛空都市の息吹きは健やかで伸びやかで、空気もどこか清々しい。この新世界そのものが持つ生命力のためか、それともそれぞれに開花を始めた新女王の候補達のサクリアのなせる業なのだろうか。リュミエールは大階段をゆっくりと上りながら、果たしてどちらの候補が新たな世界を導く翼を受け継ぐことになるのだろうと、拮抗している試験の行方に思いを巡らせた。
 アンジェリークも頑張ってはいるが、序盤にできた差は容易には逆転されず、常にフェリシアの方がほんの少しだけ先んじているのが現状だ。それでも最近では、資質そのものは意外とアンジェリークの方が上回っているように感じられる。しかしまたその一方で、迷いのない分ロザリアの方がやはりふさわしいようにも思われる。
 ともあれ、どちらが女王になるにせよ、他方の候補は女王補佐官となって親友を支え助けてゆくことになるだろう。彼女達が互いにただ張り合うだけでなく、それだけの友情を育んでくれたことが、リュミエールには喜ばしかった。

 柱廊に差しかかったところで何気なく中庭に目をやったリュミエールは、その向こう側の廊下で何やら言葉を交わしているらしいアンジェリークとオスカーの姿を目に止めて、ふと足を止めた。
 その声はこちらまで届いてはこないが、資料を胸に抱えて彼を見上げるアンジェリークが発した言葉に対し、オスカーがいかにも愉快そうに大きく身をそらして笑うのが見て取れた。
 彼はアンジェリークといるとよく笑う。そう思ったところで、オスカーが何か言いながら彼女の方に手を伸ばし、子供にするようにぽんぽんとリボンごとその頭を撫でてから、軽く手を振って立ち去っていった。
 それはいつもの見慣れた光景であったが、今日に限ってアンジェリークがそのまま動こうとしないことに、何となく目が引き付けられた。
 こちら側で見守るリュミエールには気づかないまま、彼女は立ち去るオスカーの後ろ姿を長いこと見つめ続け、そして遠目にも明らかなほど肩を落として深いため息をついた。その姿がなにやらひどく小さく見えて、彼はアンジェリークの為に密かに心を痛めた。

 彼女がオスカーに少女らしい一途な思慕を寄せていることは、傍目にも明らかだ。当然それに気付いている守護聖も多かったが、おおむね一歩引いて成りゆきを見守ろうとしていた。
 ──彼女が自分の気持ちに整理をつけて引き続き女王位を目指すのであればよし、例えそうならなくとも、それはあくまで彼女の選択だ。
 それにしても、肝心のオスカーの方がよくわからない。彼女のことを結構気に入っているのは確かなようだが、その割にはアンジェリークの気持ちをわかっていてはぐらかすような態度が目について、そのことがいたずらに彼女の心を乱しているのではないだろうかと気にかかっていた。

 そんな懸念になんとなく目を離しがたくて見守るうちに、アンジェリークは自らを奮い立たせるように頭を振り立てて、しゃんと背筋を伸ばすとすたすたと必要以上の早足で立ち去って行った。その気丈な振る舞いが、かえってどこか痛々しい。
 なんにせよ、彼女が傷つくようなことにならなければいいのだが。リュミエールはそう案じながら、気遣わしげにアンジェリークの小さな後ろ姿を見送った。


                                   

◇◇◇


 留守にしていた間に多少溜まっていた仕事を片付けてしまうと、いつもよりは少しばかり遅い時間となった。窓の外を見やると、たそがれ時の空は暗いオレンジ色と藍色とがせめぎ合う、どこか憂わしい色合いに染め上げられていた。
 聖地に戻って、彼等の宇宙が終焉の時を迎えつつあるのだということをまざまざと感じさせられた為だろうか。いつもならばどうということもないその景色にも、なんとなく心がざわめく。こんな日には、真っすぐに館に引き上げる気にはなれなかった。
 静かな泉水のほとりでしばらく楽を奏ででもすれば、漠然としたこの不安も鎮まることだろう。リュミエールはそう考えて、きちんと机の上を片付けると愛用の竪琴を抱えて部屋を後にした。


 上手に野趣を残しながらも綺麗に整えられた下草を踏みながら、まばらな木立を抜けて普段あまり人が立ち寄ることのない小さな泉水に向かう。柔らかに薫る夕風の中を歩きながら、思いは自然に女王試験のことへと向かっていった。
 世界は一刻も早い新女王の選出を待っている。とはいえ、新女王自身に充分な自覚が育ち、心の準備が整ってから宇宙を継承するのでなければ意味がない。特に今回は、新たに生まれ変わる世界の祖となり、再生の女神となるべき女王なのだ。大義のために己を殺すのではなく、喜びをもって宇宙を包みいとしむ幸せな女王であって欲しいと、心から思う。
 なぜだろう──瑞々しい世界を導く新女王の姿を思うとき、そのイメージの核となるのはロザリアではなくアンジェリークのものに近い。頭では二人のどちらが女王位についてもおかしくないと思い、どちらかと言えばロザリアがこのまま勝利を得た方が誰の為にもよいのではないかとさえ考えてもいるのに、彼の守護聖としての感覚はアンジェリークを選んでいるということなのだろうか。

(…やはりアンジェリークが、次なる女王となるべき存在なのでしょうか……)

 そんな思いに沈み込んだまま泉水の近くまで歩みを進めたリュミエールは、彫像の向こう側で不意に動いた人影に、思わずぎくりと足を止めた。
「…オスカー」
 次第に濃さを増す夕闇の中にあっても見間違いようのない鮮やかな赤い髪に、なんだという軽いおかしさ混じりの安堵が落ちてくる。オスカーの方もまた突然物思いから覚まされたような顔つきで、軽く瞬きしながらこちらを見返してきた。その視線がリュミエールの腕の中の竪琴に落ち、なるほどと得心したような表情がちらりとよぎった。

「お邪魔でしたか」
 彼に驚かされたことなどおくびにも出さずに歩み寄りながら柔らかく問いかけると、オスカーは微かに苦笑めいた表情を口元に走らせて、それからひょいと肩をすくめて立ち上がろうとした。
「いや。俺の方こそ、演奏の邪魔になるなら退散するぜ?」
 普段なら皮肉な色合いを帯びているだろう彼の言葉が、いつになくさらりと素直であったことに二度驚きながら、リュミエールはゆったりとかぶりを振った。
「いえ、それには及びません。──そうですね、あなたさえよければ何曲か聞いて行かれませんか」
 するりと滑り出たような誘いに、オスカーの眉がちょっと上がる。リュミエールはくすりと笑って、腕に抱えた竪琴の弦を軽く弾いてみせた。
「たまには変わった聴き手を得るのも一興というもの。もっともあなたのお心にかなうものであるかどうかは定かではありませんが」
 いつものぴりっと辛辣な反撃を予期しながらうっすらとそう揶揄してみたが、オスカーは特に切り返してくるでもなく、小さく笑って素直に応じた。
「そうだな、たまにはそういうのもいいかも知れん」
 この反応も意外だ。リュミエールは思わずオスカーを見やって笑った。
「いつになく殊勝らしいではありませんか」
 そんなことを言いながら、泉水のほとりに腰を降ろす。全くの背中合わせになるほど遠くはないが、彼の横に並ぶというほど近くもない、微妙な距離感の辺りを選んで座るリュミエールに、オスカーが一瞬軽い含み笑いを洩らした。だが別段特にからかいの言葉を投げてくるわけでもないので、無視して軽く調弦をする。それから少し考えて、リュミエールは自分のレパートリーの中から最もオスカーの好みに合いそうな一曲を選んで爪弾き始めた。
 元々、自分の音楽を人に聞いてもらえるのは無条件に嬉しい方だ。誰かの為に演奏する以上はなるべくその心に添うよう努めたい。…例えそれが、日頃なにかと反発し合っているようなオスカー相手であったとしても。

 別にオスカーを嫌っているわけではない。反発と言っても、本当に険悪に反目し合っているというわけでもない。ただ相反する属性を持つ同士として、そうすることで自然にバランスを取っているだけのことだ。同期として気心が知れているからこその、一種のレクリエーションのようなものとも言えるかも知れない。それだけに、妙に大人しいオスカーなど、らしくなくて物足りない気がした。
 …それだけ、心に何か鬱屈を抱えているということなのだろうか。
 リュミエールは演奏を続けながらそっと横目でオスカーの方を窺った。
 オスカーの表情は計り知れない。黙って耳を傾けてはいるが、彼の演奏に聞き惚れているというわけでもなさそうだ。どちらかといえばむしろ、ただ自分自身との対話の中に深く沈み込んでいるというような印象を受けた。

 しばらく互いに黙ったまま、楽の音だけが静かに流れていく。やがて、演奏の手は休めないままリュミエールが低く問いかけた。
「何を思っておられるのです?」
「………」
 オスカーの頬が一瞬ぴくりと動く。促すように待っていたら、その唇がゆっくり動いて、いささか端正すぎるくらいの整った笑みを形作った。
「…宇宙のことさ。今この時にあって、守護聖である俺達が他に何を考えるというんだ」
 一見さりげない表情の中で、薄青の瞳だけが硬質な光を宿してリュミエールを射る。
「聖地へ行ってきたならわかるだろう? ──もうあまり時間が残されていないってことが」
 淡々とした言葉の中に、抑えた焦燥と苦渋とがごく僅かに感じられた。
 事ここに至って、宇宙の行く末と現女王の苦しみを案じる気持ちは守護聖皆に共通する感情だ。だがリュミエールは、彼が口にしようとしないそれ以上の何かをもそこに感じ取り、あるいはと思ってオスカーの横顔を探るように見やった。
「──もしやそれが、あなたが彼女を退ける理由なのですか…?」
 オスカーはちらっと彼を見返してから、いかにも遊び人めいた気怠げな表情を作って、軽く笑い飛ばしてみせた。
「さあて? 万人にお優しい水の守護聖殿は、一体どの娘のことを言っておられるのかな?」
 冗談めかしてはぐらかすオスカーに、リュミエールは少しだけ語気を強めた。
「わたくしは真面目に聞いているのです」
「やれやれ。全く、こうと決めたら融通のきかないことだ」
 揶揄を含んだオスカーの呟きを無視して、リュミエールは言葉を継いだ。
「ずっと気掛かりであったのですよ。あなたも結構憎からず思っているのだろうに、どうしてああ気を持たせるようにしながら、その一方ではぐらかすような態度をとるのだろうかと。おそらくは彼女の心もわかっていながら、応えてやるでも拒むでもなく──あれではあまりにアンジェリークが可哀想ではありませんか」
「……振るなら振るとはっきりしてやれ、と?」
 低く返すオスカーの声は、皮肉な響きに満ちていた。彼はそのまま星の瞬き始めた空を仰いで、小さく乾いた笑い声を上げた。
「ああ、そうだな。さっぱりと振って終わりにしてやれるものなら、そうしてやるべきなんだろう。何と言っても、彼女は宇宙を継ぐべき女王候補だ。こんなところでつまらん男に迷って心を乱している場合じゃない」
 そう笑ってみせながら、オスカーの声の底には苦いものが滲んでいた。

 ──それでは彼は、自分が思っていた以上に本気であったのだ。リュミエールはそう思って驚き、思わず演奏の手を止めてオスカーの方を振り返った。
「どうした、続けろよ」
 オスカーが口の端を上げて皮肉に笑う。目顔で更にうながされて、彼は再びためらいがちに演奏を始めた。ややあって、オスカーがふっと重たい吐息をついた。
「迷っているのですか──?」
 問いかけた声が、知らず知らず同情の響きを帯びてでもいたものだろうか。視界の端でオスカーが苦笑いして肩をすくめた。中途半端な気遣いはするのもされるのも嫌う男だったなと思いながら、リュミエールはわざとそっけない調子で「あなたらしくもない」と付け加えた。

「欲しいと思ったら何としても奪うというのが、炎の守護聖殿のやり方ではないのですか? それはもちろん、いささか野蛮に過ぎるきらいは否めませんし、必ずしも褒められた性向ではないようにわたくしなどには感じられますが──それでもあなたはこれまでずっと、そうやって生きてこられたのでしょう。何を今さら迷うのです?」
「相変わらず、はっきりと物を言う」
 さして気にした様子もなく、オスカーがおかしそうにくくっと笑う。下手に同情めいた言葉をかけられるより、辛辣な物言いをされる方がよほど気楽であるのだろう。彼はどこかさばさばとした口調になって言った。
「ああ、そうだ。俺一人のことなら何も迷うことはない。例え宇宙が滅ぼうと、それまでの一時愛しい女をこの腕に抱けるのならばそれでもいいと、平気でそううそぶいても見せられるさ。──だがあのお嬢ちゃんは──…」
 ふっとそのまま口をつぐんだオスカーの方をちらりと窺った時、一見自堕落な風を装い、適当に力を抜いたように見せ掛けたその姿勢の中で、拳だけが一瞬くっと握りしめられたのがわかった。その関節が、ほんの束の間うっすら白く浮き上がる。滅多なことでは余人に見せない炎の守護聖の苦悩をそこに見てしまったように思い、リュミエールはすっと目を伏せると黙って竪琴を奏で続けた。
 やはり彼も自分と同様、アンジェリークが女王位につくことを避けがたい運命だと感じているのだ。だとすれば──自分の知るオスカーであれば尚更──本気であればあるほど、その懊悩は深いだろう。表に出さない分、彼の内部で逆巻く炎は彼自身を灼いて苛むことだろう。その苦しみはいかばかりかとリュミエールは思い、せめてものことにそ知らぬ振りを続けながら、ただ楽の音を供することに徹した。

 長いこと、それぞれ自身の思いに沈み込んだような沈黙が続いた後で、オスカーが声を出さずに短く笑う気配がした。
「…いや」
 彼は無造作に髪をかきあげると、少し顔を背け気味にしたまま、独白のように呟いた。
「それでも俺は、やはり流れにそのまま身をゆだねることはできないだろう。例え風は逆風、波は逆波であっても、帆を操り船を目的地へと向ける努力くらいはしないと、な」
 そこでふっと息をつき、オスカーはリュミエールを横目で見やって頬に薄い笑みを浮かべた。
「所詮、潮流を望むままに変えるなど人には無理な相談だ。だが、そうであればなおのこと、自ら試みることなしには望みの地に達することなどできはしない。…そうは思わないか?」
 そう言ってニヤリと笑ってみせる面持ちは、既にいつものオスカーらしい、どこかふてぶてしく挑戦的なものだった。
「オスカー…?」
 軽く胸を突かれ、手を止めて見つめるリュミエールの視線を振り切るようにして、オスカーがすっくと立ち上がる。
「何にせよ肚は決まった。流れに逆らい、船出してみることにするか。──まあもっとも、あのお嬢ちゃんの方にこの運命への乗船意志があるかどうかは、また別の話だがな」
 そう言いながらすっかり吹っ切れたような表情のオスカーに、リュミエールは彼の言う『望みの地』が何であるのかわかったように思って目を瞬かせ、それからちょっと首を振りながら苦笑した。
「……何やら、心ならずもあなたを焚きつけてしまったかのようで──この宇宙に安定と平穏をこそ望む身としては、少々早まったことをしたのかも知れないと、そんな気がしてきましたよ」
「もう遅い」
 オスカーはからかうようにクスクス笑ってみせてから、ふと真顔になって満天の星空を仰いだ。
「俺だって、彼女には一点の曇りもない幸福をこそ与えてやりたい。その為に俺は何でもする。そしてそのことは、宇宙を守り導くべき守護聖の責務と何ら矛盾しない。なぜなら……」
 オスカーは、顔を上げ凛然と立った姿勢のまま、その双眸を燃やして昂然と言い放った。
「女王の幸福こそが、すなわち宇宙の幸福に他ならないのだからな」
 それだけ言って、後ろを振り向きもせずに堂々と大股で去って行く。リュミエールはそんなオスカーの姿を思わずまじまじと見送ってから、やがて小さく笑って竪琴を抱え直した。
「──それではお手並み拝見と参りましょうか」

 ああは言ってみたものの、リュミエールは自分の言葉がオスカーを動かしたなどとは思っていない。オスカー自身もそうだろう。そうでなくてはと思う気持ちが、どこかにあった。
 女王となるアンジェリークをそれでも堂々と求め、恋の成就も世界の幸福もともに追求するつもりなのだ、オスカーは。ことの是非や成否の見通しはともかくとして、それはいかにも彼らしい。
(相変わらず、激しい生き方をする…)
 自分には到底真似できないことだ。別にしたいと思うわけでもないが、それでも少しだけ、彼のような有り様であったなら人生は随分変わることだろうなとは思う。

 そして、オスカーのそのような生きざまに巻き込まれることを、アンジェリークが是とするか否か。事の次第がどう転んでゆくものかには、強く興味をそそられた。
 既にこれは個人の恋愛沙汰に留まる問題ではない。彼女の心の持ちよう一つで、何かが大きく変わるのかも知れない。ひとつの大きな流れが変わってゆく予感に、彼はひっそりと心を震わせた。
 アンジェリークには、幸せになって欲しいと思う。もっと言うなら、できれば彼女には「幸せな女王」になって欲しい。そしてこの上なく幸せな満ち足りた世界を育み導いてもらえたらと、リュミエールは心から祈った。


 彼等が知っていた世界の終わりは近い。だがその後に、間を置かずして瑞々しく輝かしい世界が産声を上げるのだ。
 そう──若々しく光り輝く、新たな翼に乗って。
 今の彼は、そのことをとても自然に受け入れ信じることができた。

 リュミエールは立ち上がると頭上の星々を見上げ、想いを込めて竪琴を大きくかき鳴らした。
 祈りのように、生まれ来るべき新たな世界への祝福のように。澄み渡った夜空の中を朗々と、清らかな和音が広がっていった。



あとがき



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