君のために、君とともに


◇ 君のために、君とともに ◇




 ハチミツ色の午後の日差しが、窓の向こうに広がるなだらかな丘なみの緑をくっきりと際立たせている。
 炎の館の、普段あまり使っていない西翼に通じる渡り廊下へと足を踏み入れながら、オスカーは、このところなんとなく館中が浮き立ってさざめいているような気がするなと思って口元をほころばせた。
 もうじき、アンジェリークがこの館の女主人として住まうことになる。当のアンジェリーク自身にしても迎える側の使用人たちにしても、実に浮き浮きと楽しげにその準備を整えているのが微笑ましく、見ているこちらも楽しい気持ちになるというものだ。
 オスカー本人にしたところで、自分ではどっしり構えてその日を待っているつもりでいるが、実際には見るもの聞くもの何でもが輝くように快く、幸福感に胸が満たされる状態なのだ。
 何のことはない、浮き立っているのはオスカー自身も同じことだった。

 もっとも、公私の別は別として、きっちりけじめをつけているつもりだ。それは、女王補佐官の任を精一杯に務めようと頑張っているアンジェリークも同様である。
 そんなわけで、可愛らしい婚約者を自邸に迎えての日の曜日にもかかわらず、急遽舞い込んできた王立軍からの連絡に、甘いひとときも一時棚上げにして対応にあたり、ようやく戻ってきたところだった。
 幸い、聖殿へ出向くまでもなく、書斎の通信設備で何件か連絡を取り合っただけで片付く問題であったから、さほど彼女を待たせることなく済んだ筈だ。その辺の対処の手早さは、オスカーの得意とするところである。──なにせ、後に恋人との楽しいひとときが待っているのだ。少なく見積もっても通常の二割増しの有能さを発揮して、さくさく片をつけてきた。
 ともあれ、きっちり役目は果たし終えたのだ。もう休日の残りを邪魔されることはないだろうとの確信をもって、彼女の元へ晴れ晴れと戻っていけるのは、実に気分が良かった。

 さきほど、アンジェリークを待たせて部屋を出る時、彼女は愛らしく小首をかしげて「ちょっと探検してていい?」と問うてきた。遠からず彼女にとっても自宅となる場所ではあるが、このだだっ広い屋敷のほとんどはまだアンジェリークには未知の領域である。こうした機会に探索欲をかきたてられるのも当然のことだった。
「迷子にはなるなよ」と笑って承諾してやったから、今頃興味津々あちこちの部屋をのぞいて歩いていることだろう。ちょっとしたかくれんぼだなと、オスカーはくすくす笑った。
 彼が主な生活の場に使っている東翼の方は、これまでもちょくちょく遊びにきていて、アンジェリークもそれなりに馴染みがある筈だ。それほど長い時間をつぶしてはいないだろう。いるとしたら西翼の方だろうなと、オスカーは当たりをつけていた。
 果たして、西翼の部屋を一つ二つと覗いてみるうちに、奥の方からポーンと高い響きの音が聞こえてきた。
(──ピアノか)
 オスカーは少し微笑み、踵を返して突き当たりのサロンの方へと歩を進めた。



 廊下を進んでいくうちに、ポロン、ポロン、と、やや遠慮気味のためらうような音がいくつか続き、それからひと呼吸ほど置いて、ポロポロとなにやら可愛らしいメロディが流れてきた。
 少しばかり拙い指運びではあるが、アンジェリークらしい素直できれいな音色だ。オスカーはしばらく扉の外に足を止めて耳を傾け、一曲終わって音が止んだところで、すいっと扉を押し開け中へ入った。
「案外弾けるんだな、お嬢ちゃん」
 パンパンと手を叩きながらそう言って入っていくと、アンジェリークは驚いたようにパッと振り向いて、頬を真っ赤に染めながら、素早く椅子から滑り降りた。
「聞いてたんですか、オスカー様。へたっぴで恥ずかしいです、ずいぶん練習もしてないし」
「いやいや、お嬢ちゃんらしい可愛い曲で、なかなか良かったぜ。天使が弾いてるのかと思った。心が洗われるようだったぜ?」
 半分からかい混じりの口調でそう言って、頭のてっぺんにキスを落としてやる。アンジェリークも彼の軽口には慣れており、かえって気持ちが落ち着いたように楽しそうなくすくす笑いを返してきた。
「もう、そんなことばっかり」
 それから彼女は、ピアノの方に振り返り、軽く首をかしげてみせた。
「でも、このお屋敷にピアノがあるなんて、ちょっと意外でした」
「ああ。先々代だったかその前か、ここをサロンとして使っていた守護聖がいたらしいぜ。趣味人で、専属の弾き手を雇っていたとか、ちらっと聞いたことがある」
 オスカーはちょっと笑って、部屋をぐるりと見回した。
「俺自身は全然使ったことがないんだが、執事がちゃんとこまめに調律はさせてあったらしいな」
 アンジェリークはふうんとうなずき、それからちらっと悪戯っぽい笑みを浮かべてオスカーを見上げた。
「最初、オスカー様が弾くのかしらと思って、ちょっとびっくりしちゃいました」
 いかにも面白い冗談のようにそう言って、くすくすと楽しげに笑う。そんな彼女の姿があんまり可愛らしくて、オスカーはつい、ニヤリと不敵な笑みで切り返した。
「──なんでそこで、俺には弾けないものと決めつけるのかな、お嬢ちゃん?」
 アンジェリークは、一瞬目をぱちぱちさせて笑いを引っ込め、それからえええっと思い切り意外そうな声を張り上げた。
「弾けるんですか、オスカー様?!」
 心底驚いたというように目も口も大きく開いて、何度も「えーっ」と繰り返しているアンジェリークに、オスカーは思わず声を上げて笑ってしまった。
「そんなに意外か?」
 にやにやと笑って見下ろすオスカーに、アンジェリークはちょっぴり唇を尖らせて反論した。
「意外なんてものじゃないです。だって、オスカー様とピアノなんて、全然結びつかないですもん。……えーっと、リュミエール様とかオリヴィエ様とかなら別にびっくりもしないですし、ジュリアス様とかでも、意外だけどそれなりになんとなく納得っていうか。でもオスカー様でしょ? …そりゃあ何でもできる人だとは思ってたけど、でもこれはあんまりイメージ違いすぎます」
 オスカーは、はっはっと上機嫌に笑って、つややかに黒光りしているピアノの表面に、ついっと軽く手をすべらせた。
「ま、気持ちはわからんでもないがな。正式に習っていたのは、子供の頃の話だし」
 彼はそう言って、ひょいと肩をすくめてみせた。
「これでも俺は、貴族のはしくれの出身でな。一応素養のひとつとして、小さい頃から習わされていたんだ」
「そうなんですか──」
「もっとも、あまり長続きはしなかったんだがな」
 おどけるように片目をつぶってそう続けると、アンジェリークが、あっやっぱり? というような顔つきになって破顔した。…そんな素直さがまた、可愛らしくも愛おしい。オスカーはなんとなく気分をよくして、そのままめったにしない昔語りをはじめた。

 母親を喜ばせたくて最初はそれなりに頑張っていたこと。次第にじっと座って課題の曲をさらうというレッスンが苦痛になっていったこと。弟妹は長じるまできちんと真面目に習い続けていたが、自分は楽譜をそのまま大人しくたどるだけというのが苦手だったこと──等々、問わず語りに話して聞かせるオスカーの思い出話を、アンジェリークは熱心に目をきらめかせて聞きいっていた。
「…かっちり生真面目な練習曲というのがまた嫌いでな。すぐに勝手なアレンジを入れて遊ぶんで、お固い教師にずいぶんと叱られたものさ。そうこうするうち、剣の稽古や乗馬の方がどんどん楽しくなって、そっちに夢中になっちまったもんだから、レッスン自体はなし崩しにやめちまった。だが、純粋に遊びとしてなら、その後もちょいちょい弾いてはいたんだぜ?」
 実際、そちらの方ならそれなりに、結構長く続いていたのだ。特に士官学校時代には、食堂などのピアノを叩くように弾きまくっては仲間とさんざん歌い騒いだものである。
 もちろん彼も、女性を口説く際の手管として「愛のナントカ」とか「いとしのナントカ」みたいな大甘の曲を弾いてやると受けが良い、ということくらいは知っていたが、「伝えたいことは自身の言葉と直接行動で」という自分の流儀にそぐわない気がしたので、ピアノをその手のアプローチの手段として使ったことはない。もっぱら仲間うちの馬鹿騒ぎの中で勝手にめちゃくちゃ弾くばかりだったし、また、そういうのこそが楽しかったものだった。
 ──と。
 ふと見ると、アンジェリークが目をキラキラさせて、胸の前できゅっと手を組み、彼の方を見上げながらすっかり「お願いモード」になっていた。

 …それはそうか。到底弾けると思っていなかった彼にピアノの経験があると聞けば、一曲聞いてみたいと思うのは当然だ。
 しかしまあ正直言うと、今すぐにここでというのは、あまり気が進まなかった。
 聖地へあがってからは、別に一人で何か弾くような気にはならず、館にこんな部屋があっても、ずっとピアノに触ってもいなかった。今何か弾けと言われても、往時のようなわけにはいかないだろう。
 アンジェリークに聞かせるのだったら、やはりいいところをみせたいというのが正味の本音だ。
 こんなことなら、つれづれの手遊びくらいには続けておくんだったなと思って、オスカーは自分のそんな心の動きに苦笑した。
 まあ、男なんてものは、好きな女の前では特別格好をつけてみせたいものなのだ。
 しかしそれはそれとして、現に目の前の恋人からこれほどまでに期待に満ちたまなざしを向けられてしまっては、それをむげに退けるというのも情のない話ではある。

「……弾いて欲しそうだな」
 探るような彼の言葉に、アンジェリークはこくこくと勢いよく頷きながら、期待に頬を紅潮させている。こんな顔をされちゃあかなわないなと、オスカーは苦笑混じりの吐息をついた。
「どうしても、か?」
 こくこくこく。
「それこそ随分弾いてないから、上手くはないぞ?」
 ぶんぶんぶん。
「しょうがないな。まがりなりにも弾けるなんて言い出しちまった俺が悪い」
 わくわくと期待にはち切れそうなアンジェリークの愛らしさに、オスカーはあっさり両手を上げて降参した。わあっと嬉しそうな歓声をあげる彼女の笑顔がなんだかとても眩しくて、どこかくすぐったいような心地だった。
 オスカーは、ぱちぱちと小さな拍手をおくるアンジェリークに恭しく一礼すると椅子を引き、久しぶりに鍵盤に向かって、ふうっとひとつ大きく息をついた。
 どうやら、らしくもなくそれなりに緊張しているらしい。そんな自分が自分で可笑しかった。



 ──さて、何を弾こうか。
 オスカーはしばらく宙をみつめて考え込み、今の自分の技量でうまくカバーしてある程度の体裁をつけられそうなのは、どんな曲だろうかと思案した。
 それから彼は軽く咳払いをして座り直し、鍵盤に指を置いて、おもむろに弾き始めた。

 ゆったりと重厚なコラールのメロディ。誰でも大抵耳に馴染んでいるだろう、ごくポピュラーな宗教曲の古典だ。やはり多少指が重くてもたつくようだが、仲間内でしょっちゅう披露していた曲だけに、久しぶりの割には案外ちゃんと手が覚えているようだ。この調子なら結構なんとかごまかしもきくだろうと、オスカーは微かに口元を緩めた。

 最初の有名なフレーズを一通り弾ききったところで、一転がらっとリズムを崩した。
 耳慣れたメロディの主題はそのまま、軽妙に躍動するシンコペーションのリズムに乗せてスウィングさせる。
 一瞬えっという顔つきになり、ぽかんと口をあいたアンジェリークが、次の瞬間ぱあっと笑み崩れるや、すごいすごいと楽しそうに手を叩いてはしゃぎだした。
 …ああ、その光がはじけるような笑い声が好きだ。楽しそうに嬉しそうに、生き生きとほとばしる生命の歓びそのもののような──。
 気持ちがノッてきた。
 オスカーは少し椅子をずらし、即興演奏を一番得意としていた頃のラフなスタイルで、元の主題に思いのままにアドリブを加えていった。時折指が思うように動かず音を飛ばしたり外したりということもないではなかったが、そこはもう勢いの力技で、装飾の一部のような体裁にしてごまかしてしまう。そうしながらも、格好をつけたいような気持ちはいつか消え、この心地よい流れを途切れさせないことだけを思って弾いた。──アンジェリークが今この演奏を楽しんでいる、というその一点だけが、今の彼には重要だった。
 そのアンジェリークは、目を丸くしながらも無意識のように体を揺らし、心の底から楽しそうに聞き入っている。
 ああ、楽しいなと、純粋にそう思った。

 そんな風にして、原曲からは相当かけ離れた雰囲気のままに弾き通し、なんとか最後の和音に着地した。
「…と、まあ、こんな感じにアドリブを絡めて遊ぶばかりだったわけだが」
 オスカーは軽く息をつくと、アンジェリークの前でしか見せない照れ笑いの表情で顔を上げた。
「やっぱり長いこと弾いてないからアラが目立つな。思うように指が動かん」
「そんなことないですよ、すっごく素敵でした!」
 アンジェリークが思い切り力一杯請け合う。瞳を輝かせて頬を紅潮させたままの彼女は、とても可愛らしかった。オスカーは、そうか?と微笑み、彼女を引き寄せてその腰を軽く抱いた。
「君が楽しんでくれて嬉しかった。久しぶりに、俺も楽しかったよ」
 素直な感謝をこめてそう言うと、アンジェリークはうふふと笑って頬を染め、もう一度「本当に素敵でしたよ」と言いながら、彼の頬に小鳥のようなキスを落としてきてくれた。

 それから彼女はするりと彼の腕から離れると、ピンピンピン、と高いキーの鍵盤を叩いてから、ちょっと口を尖らせてみせた。
「あんなに弾けるのに今日まで黙って隠してたなんて、ずるいですよオスカー様?」
 そう言ってから嬉しそうにくすくすと笑う。その様子は、新しい発見をかみしめてでもいるようで、なんだかとても楽しげだった。
「……かなわないなあ。オスカー様って、ほんとに隙がないんだもん」
 アンジェリークは、半分拗ねたような、それでいて半分は幸福そうな吐息をついてそう言うと、いきなりパッと顔を輝かせて、くるりとオスカーの方に向き直った。
「そうだわ、連弾しましょう、オスカー様!」
「──は?」
 突然の飛躍についていけずに思わず聞き返すと、アンジェリークはオスカーの手をきゅっと握りながら熱心に続けた。
「今の曲。連弾用の楽譜があるはずですから、ちゃんとそれぞれ練習して、今度は一緒に弾いてみませんか?」
 アンジェリークはどうやら真剣だ。オスカーは笑って彼女の手を取り、自分の手の中に包み込み直した。
「それは構わないが。それにしても唐突だな」
「…そうかな?」
 ちょっと目をぱちぱちさせて考え込んでから、アンジェリークはにっこり笑った。
「だって、オスカー様ばっかりあんなにカッコ良く弾くのって、何だかずるいです。でも、私がいくら練習したって、とてもあんな風に自由に格好良くは弾けないですし。だったら最初から一緒に肩を並べて弾くための練習をする方がいいです── 一緒に弾いてみたいんです、オスカー様と」
 そこで彼女は少しだけいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「もちろん、元の曲そのまんまを全部ちゃあんと弾くんですよ。楽譜通りにきちんと練習して弾くことにかけてなら、私だってオスカー様に負けませんからね? …オスカー様と勝負するなら、このくらいのハンデがなくちゃ!」
 そう言いながら可愛い拳を固めて、むんっと気合いを入れてみせるアンジェリークに、オスカーは思わず吹き出した。
「なんだ、いつから勝負になったんだ?」
 アンジェリークは一瞬あれっという顔になり、それから「ほんとだ」と小さくつぶやいて、くすくすと笑い出した。
「ま、その意気やよしといったところかな。それでこそ俺のお嬢ちゃんだぜ。──ってわけで、受けて立とう」
 からかうように言いながら、小さく笑い続けるアンジェリークを抱き寄せる。彼女も彼の首に腕を絡めて抱きつきながら、その耳元で甘く囁いた。
「でもほんとに私、オスカー様と一緒に弾いてみたいの。本当よ?」
「ああ。俺も君と一緒にだったらやってみたい」
 心からのそんな言葉が、ごく自然に滑り出た。アンジェリークにもそれは伝わったのだろう。幸福そうな笑いの気配とともに、彼女の腕にきゅうっと力がこもった。
「──…愛してるわ、オスカー様」
 本当に本当に嬉しそうな、彼女の囁き。それがどれほどの深い喜びと暖かさとを自分にもたらしてくれるか、正しく語れる言葉をオスカーは持たなかった。
 だから、彼女の体に回した腕にぎゅっと力をこめて、抱きしめる。「愛しているよ」と囁き返すその言葉は、胸の底から溢れる気持ちの何十分の一かをしか表してはくれないように思うから。

 ふと、彼女のためになら、大甘の愛の曲を弾いてやるのもいいかも知れないと思った。
 言葉だけでは表しきれないそうした感情のうねりや機微を、人は音に乗せてなんとか伝えたいと思うものなのかも知れない、と。
 正直、自分がそんな風に考えることがあるなどとは、思ってもみなかった。だがもしも、より深くより強く伝える手だてがあるというなら、伝えてみたい──愛を、優しいメロディに乗せて。


 何にしても、これからはこの西翼に足を運ぶことが増えそうだ。
 これからはそのようにして、アンジェリークの存在が自分の生活に変化と広がりをもたらしてくれるのだなと、実感としてそう思った。
 君のためにしたいこと、君とともにだからこそやりたいことが、一つまた一つと増えていく。きっとそうした小さな積み重ねこそが、「共に生きる」というそのことに、豊かな深みを持たせてゆくのだろう。

「愛してる」
 もう一度彼女の髪の中につぶやきを落としながら、オスカーはその華奢な体をしっかりと抱きしめた。



あとがき



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