こんな雨の日には


◇ こんな雨の日には ◇




 しとしとと、静かにしかし途切れなく、雨が降っている。聖地には珍しく、ひんやりと冷たい雨だ。
 暖を取るというほどの目的でもないが、なんとなく気分で火を入れた居間の暖炉の中で、小さく炎が踊っている。
 静かな午後だった。

 雨の音と、時折ぱちりと薪がはぜる音の他には、何も聞こえてはこない。強いて言うなら、自分が本のページを繰るときの微かな紙の音くらいか。
 そう思ってから、オスカーはふと読んでいた本から目を上げて、ソファの上で同じく本を広げていたアンジェリークの方を見やった。
 ルヴァから借りてきたらしいずっしり重たい本を膝に載せ、うつむきがちに文章を目で追っている様子ではあるが、その実さっきからずっと、彼女がページをめくる音は聞こえてきていない。恐らく、同じ所を何度も何度も繰り返し目でなぞっているだけで、全く先へは進めていないのだろう。目元も心なしかとろんとしてきているようであるし、これは眠ってしまうのも時間の問題だなと思って、オスカーは小さく笑った。

 暖炉の中で、からりと軽い音と共に薪が燃え崩れた。オスカーは本をサイドテーブルに置いて立ち上がると、炉床の前に片膝をついて薪を足した。
 炎の舌が薪の上を舐めるように覆っていき、新たな勢いを増すのを見つめながら、オスカーはいわく言いがたい満足感がじんわりと体の中に広がるのを覚えた。
 外は雨。暖炉では力強い炎が乾いた空気を作り、背後にはこの上なく愛おしい存在がのんびりと安心しきってくつろいでいる。
 ただ薪をくべるという単純な行為がこれほどの充足感をもたらすというのは、自分でも意外なことだったし、ちょっと笑える感覚でもあった。
 それは恐らく、「火を守る」ということがそのまま愛するものを守ることと同義であった太古の記憶が、この自分の血の中にも脈々と受け継がれているという証なのだろう。
 自分の女を、自分の領域内に囲い込んで守ろうとする。要するに男なんていうものは、大昔から大して変わってはいないということか。

 そのまましばらく踊る炎を見つめ、それからソファの方を振り返って、オスカーは思わず口元をほころばせた。
 アンジェリークのまぶたがついに落ち、その手は力なくぱたりと体の脇に放り出されている。半ば開かれた愛らしい唇からは、気持ちよさそうな寝息が微かに漏れていた。
「しょうがないお嬢ちゃんだな…」
 愛おしげに低く笑って、オスカーは彼女に歩み寄り、その膝の上の本をそっと取り上げてテーブルへ置いてやった。
「ん…」
 膝の上の重さが急に減じたためだろうか。うとうととまどろんでいたアンジェリークが、小さく身じろぎしてまぶたを上げ、まだ半ば眠りのうちにいるようなとろりとした目を向けてきた。
「──ベッドに行くか?」
 彼女の傍らに体を滑り込ませて、ほっそりした肩を抱いてやりながらそっと問いかけると、アンジェリークは再び瞳を閉じて、甘えと抗議の色合いがないまぜになったようなくぐもった声をもらした。そのまま彼の胸に頭をすり寄せてくる仕種は、まるでいとけない子供のようだ。オスカーは笑いをこぼしながらソファに腰を落ち着けて、そのまま彼女の体を包み込むようにしっかりと抱き寄せた。
 アンジェリークが満足げに何か呟き、彼の腕の中でおさまりの良い姿勢を探して身じろぎする。ややあって、彼の肩の窪みに気持ちよく頭を預けたまま、彼女の体からすうっと力が抜けていった。
 その重みがやんわりと胸にかかってくるのが、なんとも快い。

 この暖かな重みは、幸福そのものの重みだ。オスカーはそんな風に思って、そんな自分にうっすらと笑った。
(全く、骨抜きもいいところだな)
 くすくすと湧きあがってくる笑いを慎重に抑え込んで、彼は腕の中でまどろむアンジェリークをそっと覗き込んだ。
(──アンジェリーク。俺の…)
 起こさないように気をつけながら、その柔らかな髪に唇を埋める。馴染み深い彼女の香りが鼻腔を甘くくすぐり、彼の体の奥に火をともした。
 …彼女を起こさないつもりであるのなら、この芳しさを追い求め続けるのは都合が悪い。そうわかってはいたが、どうしても顔を上げる気になれなかった。
 可憐な花のような淡い香りの下で、彼を惹き付けてやまない彼女自身の香が仄かに揺らぐ。それを探りながら全身で彼女を感じ、包み込まれたいという欲求が、ゆるりと高まってゆく。──このまま、身内にくすぶるこの情熱を解き放ち、彼女の柔らかな温もりにどこまでも溺れていきたかった。
 だがその一方で、こんなにも安心しきって委ねきっている彼女を、もうしばらく甘やかしてもやりたい。処置なしだなと思いながら、オスカーはようやく顔を上げると、ゆっくりと息を整えた。
 まあいい。このツケは今夜ゆっくり払ってもらおう。
 ひとつ大きく息を吐き、ちょっと座り直すと、彼はアンジェリークの頭に軽く頬を預けて目を閉じた。


 外では相変わらず雨が降り続いているようだ。
 暖炉の火も、まだ衰える気配はない。
 こんな午後には、ただこうして寄り添っているだけというのも、それはそれで悪くない。

 そうっと彼女の髪を撫でてやると、アンジェリークが夢の中にまどろみながら微かな笑みを浮かべた。
 オスカーは、唇の端に微笑みを上らせて、自分もとろとろと浅い眠りに引き込まれていった。



あとがき



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