What might have been


◇ What might have been 2 ◇




 ───そしてそれから、何年の時が経ったのだったか。



 女王宮の奥の瀟洒な庭園を、アンジェリークは一人そぞろ歩いていた。
 ただ一人になりたい夜、この小さな庭園はいつも静かに迎えてくれる。今夜は少しの間だけ、ロザリアからも離れて一人きりになりたかった。


 今日、オリヴィエがこの地を去った。
 即位以来、後任者にその力を譲り渡して聖地を後にした守護聖は、これでもう四人目だ。穏やかな日々の中で時の流れを忘れ、年月を数えることさえやめてしまって久しいのに、不意にこうして冷徹な現実が顔を出す。この聖地にあっても、確かに時は流れているのだ。
 思えば女王候補であった時代からずっと、オリヴィエはいつも影に日なたによく支えてくれた。彼女自身が気付くよりも早く、彼女が抱える不安や惑いの芽を敏感に感じ取り、それをさりげなく和らげ取り除いてくれる──そんな存在だった。
 その彼は、もういない。アンジェリークは胸に込み上げてくるものをそっとこらえて、俯きがちに近くのベンチに腰をおろした。

 しっとりと夜露を宿した草花の香が、やわらかく彼女を包み込む。瞳を閉じると、出立前に挨拶に来たオリヴィエのしゃらっとした笑い顔が目の裏に浮かんだ。
『人よりサクリアの目覚めが遅かった分、逆にそれを使い果たして役目を終える日は早めに来たのかな?』
 軽い口調でそう言って、おどけるように肩をすくめてみせたオリヴィエ。何気ないその言葉の背後でオリヴィエが、彼女の心の奥深くひそかにくすぶる懸念をそっとなだめてくれたのだと、アンジェリークにはわかっている。そんな彼の最後の思いやりが心にしみて、うっすら涙がにじみあがってきた。
 …オリヴィエにはわかっていたのだ。何もかも。
 こうして彼をなつかしみ、その別れを惜しむ気持ちの裏で、アンジェリークの中には確かに、これがオスカーでなくてよかったとほっとする気持ちが存在している。
 安堵と後ろめたさと、そしていつかはオスカーにもその時は訪れるのだという恐れ。その全てが入り交じった感情に、彼女の心は千々に乱れた。

 まず静かにクラヴィスが去り、さほどの時を置かずにジュリアスが去り、少し間をあけてルヴァが、そして今回オリヴィエが継承を終えて去って行った。
 もちろん、後任の若い守護聖たちの瑞々しいサクリアはきちんと自分を支えてくれているし、宇宙の隅々まで広がって、生命を健やかに育む使命を果たしてもいる。──そうやって時は巡り命は流転し、全ては自然の摂理のままに流れてゆくのだと、頭ではそうわかっているのだけれど。
 それでも、次こそはオスカーの番なのだろうかと思うだけで、ひやりと冷たいものが胸の奥に去来する。アンジェリークは慌てて頭を振って、胸をしめつけるような冷たい恐れを追いやろうとした。
(大丈夫──まだ大丈夫よね。だって炎のサクリアには、これっぽっちも衰えの気配は感じられないもの)
 彼女は無意識に心の手を伸ばして炎のサクリアの在り処を探り、熱く燃えるその輝きと熱をはっきりと感じ取って、ほっと体の力を抜いた。
 これが自分のエゴだということは、よくわかっている。それでもどうしても、彼にだけはずっと傍で支え続けていて欲しい。
 それだけが、彼女のただ一つの望みだった。


 ふと、その炎のサクリアが傍近くへと寄り添ってくるのが感じられて、アンジェリークは顔を上げた。一拍遅れて、耳に馴染んだゆるぎない歩調の靴音が聞こえてくる。彼女は素早く目もとを拭い、姿勢を正して、ゆっくりそちらへ振り向いた。
 暗がりから姿を現し、少し下がったあたりで立ち止まったオスカーが、軽くマントをはらって一礼する。
「はばかりながら、警護に参上いたしました」
 張りのあるその声は、こうして星明かりの薄闇に包まれていると、少しだけやわらかな甘い響きを帯びて聞こえる。とくんと鼓動が一つ高まるのを感じながら、アンジェリークは女王としての微笑みを唇に乗せた。
「……私なら大丈夫なのに」
 少し困ったような笑いに、オスカーが軽く笑んだ。
「お目障りならば下がって控えておりますが、その前にこれを」
 そう言って、手にした軽いケープを差し出してみせ、それから彼はすっとアンジェリークの背後に回るとその肩にケープを回しかけてやった。
「夜気に当たるには少々薄着のままで出て行かれたからと、補佐官殿が心配していましたよ」
 笑い含みにそう言いながら、ほんの一瞬彼の大きな手が薄い肩を包み込む。ケープ越しにその温もりを感じて、また一つ胸が躍った。
 すぐにすいっと離れてゆくその暖かさを追っていきたい気持ちを押し殺し、アンジェリークは一歩下がって控えた彼を見上げて微笑んだ。
「…ありがとう」
「オリヴィエのことを思っておられたのですか」
 オスカーがそっと優しく問いかける。アンジェリークは、ケープの襟元をかきあわせるようにしながら、俯きぎみに微笑んだ。
「ええ、そうね…そう……」
 少し口籠って、それから彼女は少女のような仕種で髪をはらうと、星の輝く夜空を見上げて笑った。
「思い出していたわ、女王試験のときのこと。ただひたむきにがむしゃらに、とにかく前へ進むことだけ考えて、手探りで頑張っていた頃のこと」
 オスカーがにこりと笑んで頷いた。
「オリヴィエは当時から、陛下のよき理解者であり助言者でありましたね。あの独特のさりげなさで、陛下と補佐官殿とをよく支え力付け、後押ししていたものでした」
 彼の声の中にも、少しだけ懐かしむような響きが混じる。オスカーとオリヴィエとは気の置けない飲み友達であったと聞いているし、そんな友との永の別れは、彼の中にも多少の感傷を呼び起こしているのだろうか。そんなふうに思いながら、アンジェリークは「ええ」と頷き、ほうっと軽く吐息をついた。
「懐かしいわ、何もかも。──しょっちゅうジュリアスに叱られていたことも、あなたにお嬢ちゃん扱いされて悔しかったことも、からかわれては腹を立ててたことも全部、ね?」
 彼女のクスクス笑いに誘われたように、オスカーも昔のような気安さで笑い、それからひょいと軽く肩をすくめてみせた。
「なんともからかい甲斐のある、本当に可愛らしいお嬢ちゃんでしたからね。つい構わずにはおれなかった」
 声音に滲んだ懐かしいからかい口調に、アンジェリークはちらりとオスカーの方を見やり、限りない暖かさのこめられた視線に出会って、どきりと急いで目をそらした。
 そんな心のざわめきを軽い笑いに紛らして、アンジェリークは殊更に明るい口調になって言った。
「ねえ、知ってた? あの頃私、あなたにずっと恋してたのよ」
 むろん最初から答えを期待しての問いではない。オスカーが是とも否とも答えないのを知っていて、アンジェリークはそのまま続けた。
「知らないはずないわよね。恋のエキスパートのあなたの目には、『お嬢ちゃん』の初恋なんて、いかにも明らかだったに決まってるもの」
 案の定、オスカーは黙ったまま静かにそこに控えている。そのことを半ば嬉しく半ばもどかしく感じながら、彼女は囁くように言葉を継いだ。
「──最後の育成をお願いしたあの日。私、あなたに告白しようかと思ってたわ。結局できなかったけれど、でもあなたのことだもの、それもこれも全て判っていたのでしょう?」
 やはり黙ってただこちらを見つめているオスカーをちらっと見やって、アンジェリークはくすりとどこか透明な笑みをもらした。
 オスカーは、やっぱりいつも変わらない。一人で超然として動かしがたくて、その真情には触れたくても触れられない。なんだかひどく不公平だ。
 不意に胸の内でもどかしさが勝り、そこまで言うつもりではなかった言葉がするりと唇を滑り出た。

「もしもあのとき、貴方が好きなんですって告げていたら、どうなっていたのかしら…ね──?」

 短い沈黙の後、オスカーがゆらりと動いた。
 一瞬だけ、その瞳が熱い光を宿したように思われた。だがその光は瞬きひとつですぐに隠されてしまい、彼はアンジェリークにやや背を向けるようにして夜空を仰ぐと、ごく平静な声で答えた。
「…その仮定には意味がない」
 ゆったりと落ち着いた声だった。彼は片手を軽く剣の柄に置いた姿勢のままに、淡々と続けた。
「現実にその言葉は口に出されず、最後の育成を依頼してあなたは去った。俺もまたあなたを呼び止めることはせず、結果、俺達は女王とそれに仕える守護聖として、共に力を尽くしてこの宇宙を守り、育み、支えてここまで来た。そうやってこの道を選び取ったのは俺達自身。そうではありませんか?」
 半ば予期していた通りの答え。自分が女王であり、彼が守護聖である以上、それ以外の言葉が得られるはずもない。
 いっそ清々しいと思い、意外なほどに落胆がなかったことに密かに安堵しながら、アンジェリークは軽く瞑目した。
「そうね。あのときに道は分たれた。それは今さら変えられないし、そうである以上『もしも』という問いに意味はないんだわ。…変なこと言い出してごめんなさいね。守護聖を見送った日は、なんだか少し感傷的になっちゃうみたい」
 そう言って、アンジェリークは口元に小さな微笑をたたえて素早く目を瞬かせた。
 その一瞬。彼女を見つめるオスカーの目が不意に狂おしい熱を帯び、その手が剣の柄の上でぐっと強く握りしめられた。

「…俺のサクリアは尽きませんよ」

 激情を内に押し込めた平坦な口調で、オスカーは挑むようにそう告げた。
 驚きに目を見張り、瞬きも忘れて彼を見上げるアンジェリークに、彼は燃えるような目で低く続けた。
「それを心配しておられるのでしょうが、そうはなりません。…他ならないあなたがそう願い信じている限り、俺のサクリアが勝手に早々と衰えて、あなたから俺を引き離すようなことにはならない。──俺は、あの日から今日までずっと、それを信じて疑ったことなどないんですよ」
 ふと目もとを和らげ、低く笑ってそう言いながら、彼はアンジェリークの膝元近くに跪くと、その手をそっとすくい取って柔らかく掌を重ねた。
「ずっとあなたの傍にあって支え続けると、お誓い申し上げた。それを信じていて下さい」
 熱のこもった彼の言葉に、アンジェリークは何も言えず、ただひたすらオスカーを見つめ返すことしかできなかった。
 そんな彼女に、オスカーはにこりと口元をほころばせた。
「火龍族のサラを覚えていますか」
「ええ、もちろん…?」
 唐突な問いに戸惑いながら答えると、オスカーは一つ頷き、彼女の手を包み込むその手にぐっと力がこもった。
「かつてあの飛空都市で、彼女の言葉に耳を傾ける機会が何度かあった。そこから俺なりに感じ取ったのは、運命の大きな流れにはある一定の揺らぎがあって、己の意志と行動によってその流れを動かすことは十分に可能であるということだ。必要なのは、少々の運と、信じる心と、訪れた機会を逃さず捉える決断力。それだけだと俺は思う」
 その瞳は炯々と輝き、アンジェリークの心を鋭く射通すかのようだった。
「さっき君が言った通り。俺は君の想いを知っていた。君もまた、俺の想いを知っていた筈だ──そうと意識はしていなかったかも知れないが。そしてあの日俺達は、互いの想いを封印し、滅びかけた世界を救うことに身を捧げるという道を選んだ。俺は今でも、それが正しい選択であったと思っているし、後悔もしたことはない。だが俺は一方で、分たれた道もいつか再び交わるときがあると、そう強く信じてもきたんだ、アンジェリーク」
 囁くように、素早く呼び掛けられたその名前。一度も面と向かってきちんと呼んでもらったことのなかったその名が、オスカーの中ではずっとずっと密かに息づいてきていたのだということが、熱いその響きからはっきりと伝わってくる。
 アンジェリークは、思わず涙がこぼれそうになるのを懸命に堪えた。オスカーが目を細めて、なおも低く囁きかけた。
「だから、諦めずに信じ続けていて欲しい。あれが『終わり』ではなかったのだと。女王の君を抱き締めることこそ叶わないが、だがそれでも、恋はいっとき封印されただけで決して終わったわけではなく、君の心が信じることをやめない限り、新たな再生のときは必ず訪れるのだと──」

 ついに堪えきれなくなって、アンジェリークは目を閉じた。その頬の上を、ぱたぱたと涙の粒が転がって落ちる。不安や恐れを洗い流し、心のしこりをきれいに溶かし去ってくれるような、そんな涙だった。
 彼女は自らその涙をささっと指で拭い、顔を上げるとにっこり笑った。
「…道はいつか再び交わると、あなたは言ったけど」
 抑えた情熱を込めてひたむきに見つめてくるオスカーを見つめ返し、アンジェリークは彼の手にそっと手を重ねた。
「今がそのときだったのだと、私は思うわ。──この道がどこへ私たちを連れていくのだとしても、オスカー、私はあなたと一緒に行きたい」
「──アンジェリーク」
 湧きあがる歓喜をかみしめるようにして囁かれたその響きを、アンジェリークは目を閉じて深い喜びとともに味わった。

 あの日、あのときには、互いに想いを伝えてしまうことはできなかった。両想いだとはっきり知って、それでも女王への道を迷いなく歩んでゆけたかといえば、あの頃の自分はそれほど心つよくはなかったと思う。
 そしてあのとき、彼女は女王位につかねばならなかったのだ。世界のために、一刻も早く。オスカーにはそれがわかっていた───

「オスカー。あなたを好きになってよかった。あなたを好きで…よかった」
 囁くようにそれだけ言って、アンジェリークは涙ぐみながら微笑んだ。オスカーの目が、ひどくせつなげな光を宿して揺れた。
「……この身はいつも、あなたの為だけに。身も心も、我が命の炎の全てをあなたに捧げます」
 抑えた声でそう告げて、オスカーは彼女の手を強く握った。それから彼は両手でその白き手を押し頂くと、思いのたけの全てを込めて唇を押し当てた。
 その熱さにアンジェリークは震え、思わず目を閉じて、今ここで彼の腕の中に身を投げ出してしまえたらどんなにいいかと強く願った。

 だが今は、その時ではない。
 目を開くと、顔を伏せたままのオスカーもまた、このまま彼女を抱きすくめたいという衝動と闘っているのがわかった。
 ややあって、ゆっくりと顔を上げるオスカーの熱い視線と、アンジェリークのすがるようなせつない視線が絡み合った。視線とともに、心もまた熱く溶け合い一つになったように感じられた。
 見つめ合ううちに、ふっとオスカーの唇がほころんだ。彼はアンジェリークの手を取ったままゆっくり立ち上がり、力づけるように一度ぎゅっと握ってから、そっとその手を放した。
「俺は、これまでも結構幸せでしたよ。ただ一人の女性と思い決めた最高のレディに仕え、そのひとを守り支えて誠を尽くす。それこそ騎士の本懐というものです。──その上、今もあなたの心が変わっていないとわかり、未来へ希望をつなぐことさえできるようになった。これを無上の喜びとしなくてなんとしましょう」
 そう言ってからどこか艶めいた笑いを浮かべ、キュッと片目をつぶってみせるオスカーに、アンジェリークは思わず笑顔をこぼれさせた。

「これからもずっと、支えてて下さいね?」
「もちろん」
 候補の頃に戻ったようなそんなやりとりに、胸の奥がじんわり暖かくなった。

 道は分たれたと思っていたけれど、ちゃんとこうして再び交わった。
 ううん、ほんとはいつでも引き寄せられるくらい近くにあったのに、見えていなかっただけ。あなたが灯をともしてくれて、今ようやく私にも見えた。
 この道を、いっとき交差するだけでまた別れてゆくようなことにはしたくない──きっとさせない。
 そう思うだけで、新たな力が身の内から湧き出てくるような思いがした。

「…そろそろ部屋へ戻ります」
「では、お送りしましょう」
 女王と守護聖としての言葉を交わし合いながらも、見交わす瞳には心をひとつにするものの暖かな交流がある。それがどれほど素晴らしく、また心を強くしてくれるものであるか、今このときまで知らなかった。
 流れを変える──それも不可能ではないと、今は心から信じられる。信じるからこそ、力になるのだ。


 もう一度視線を交わし、微笑み合って、それから二人は庭園の小径を宮殿の方へと歩いて行った。
 凛と胸を張った小柄な女王と、恭しくそれに付き従う逞しい騎士の姿を、天上の星々が見守っていた。



あとがき



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