LEAP


◇ LEAP ◇



 いつの間にか、日の曜日はオスカーと過ごすことが多くなった。
 それはいかにも自然で心地よくて、だから少しだけ──期待してしまう。

 今日も特に約束はしていなかったけれど、当然のように迎えに来たオスカーと、当然のように外へと出かけてきた。
 最近は、オスカーの故郷に少し似ているという丘で、彼が広げてくれたマントの上に並んで腰掛け、他愛もないお喋りに興じるというのが定番だ。彼の冗談に笑ったり、からかわれて反撃を試みたり。そんな時間はとても楽しくて、いつまでも続いて欲しいのに、いつもあっという間に過ぎていく。
 …ふとした瞬間。ほんのちょっぴり、胸が痛む。

 遠くを見やるオスカーの横顔をそっと窺い、せつなくて甘い痛みにこっそり小さな吐息をついたとき、丘の上を渡る風がアンジェリークの髪をなぶっていった。
 片手をあげて頬にかかろうとする髪をかきあげようとしたが、指の間をすりぬけてきた髪先に口元をくすぐられて、彼女は慌てて両手で髪を押さえた。
「今日はちょっと風があるな」
 隣でオスカーが軽く笑う。アンジェリークは両手で髪を一つにまとめるように押さえながら、困ったような笑みを返した。
「ほんとですね。後ろできっちりまとめてきた方がよかったかも」
 オスカーとのデートだから、少しでも子供っぽく見られないようにと思って、いつもの赤いリボンも外してきている。せめてやっぱりリボンくらいして来たらよかったかなと思っていたら、オスカーがふっと小さく笑った。
「そのままの方がいい」
 そう言って見つめてくるオスカーの瞳の色が、なんだかとても深い気がしてどきりとした。
「お嬢ちゃんの髪はくるくるといかにも軽そうで、まるでその顔が渦巻く光に縁取られているようだ。こうして下ろしたままにしておけよ」
 そう言いながら軽く彼女の腕に触れて、髪をまとめて押さえていた手を外させる。アンジェリークはまたドキッとして、頬に赤みがさすのを強く意識した。
 ほんの一瞬の触れ合いだったのに、彼の指が触れた所がなんだか熱い。
 意識し過ぎだと自分を叱り、彼女は上目使いにオスカーを見ながら抗議した。
「くしゃくしゃになっちゃいます」
「それもまた可愛いと思うがな」
 からかうようにくくっと笑って、オスカーがつと手を伸ばしてきた。
 今度こそ、大きく心臓が飛び跳ねた。
 オスカーの長い指が、柔らかな金髪のひと房を絡め取って軽く弄ぶ。アンジェリークは急速に高まっていく鼓動に息を詰まらせながら、その場にじっと固まっていた。
 ただ髪の先に軽く触れているだけなのに、どうしてこんなにも親密な感じがするんだろう。
 だから意識し過ぎなんだと、もう一度心に言い聞かせてみたけれど、今度は動悸がとても鎮まりそうになかった。

「……伸びたな」
 アンジェリークの内心の嵐をよそに、オスカーがぽつりと感慨深げに呟いた。彼はしばらくそのまま黙って彼女の髪を弄んでいたが、やがてそっと手を引いた。
 アンジェリークは、解放されてほっとしたような、彼との繋がりが断たれて残念なような、奇妙に交錯した気持ちで、ためらいがちにオスカーを見上げた。
 彼との距離は、近いようで遠いようで、なんだかとても落ち着かない。
 時々──ちょうど今のように、彼の瞳が優しさと底知れなさを同時に秘めて自分に向けられているような時──当たって砕けて弾け散ってしまってもいいという衝動が、体中、心中を揺さぶる。

 言ってしまおうか。

「オスカーさま」
 思いがそのまま溢れたように、言葉がするっとこぼれ出た。が、その後が続かない。アンジェリークは大きな緑の瞳を見開いて、言うべき言葉を失ったまま、魅入られたようにオスカーの瞳を見つめた。
 強い風に、彼女の顔の周りで金の髪が大きく踊る。
「私………」
 わななく声でなんとか続けようとしたその時、彼の色素の薄い瞳の中で、確かに青白い炎が揺らめいた。
 そう思った次の瞬間、オスカーの指が一本、唇の上に軽く置かれた。
「…そんな目をして、何を言い出すつもりなのかな、お嬢ちゃん?」
 言葉は穏やかなのに、その瞳は怖いくらいに揺るぎない。その奥に熱く宿る、氷の色の烈しい炎。
 それに気圧されて目をそらせば、きっとこの瞳は柔らかく和み、なだめるようにいつもの優しい笑みを浮かべてくれるのだろう。理由はないが、そう思った。
 でも──だから──そらせない。心臓は破れそうなくらいに早鐘を打ち、喉元が痛いくらいに息が詰まって苦しいけれど、それでも目をそらすことだけはできなかった。

 張り詰めたまま無言で見つめ合って、どれほど過ぎたろう。
 すっとわずかに、オスカーの目が細められた。それと同時に、彼の指がついっと動いて彼女の唇をなぞった。
「……!」
 思わず反射的に目を閉ざしたアンジェリークの頬を、さらりと固く暖かな掌が包み込み、そのまま軽く上向かされた。
 キスされるのかと思って、一瞬緊張に身を固くしたが、オスカーは顔を寄せてはこない。恐る恐る目を開いてみると、彼は何かを抑えるような厳しい面持ちで彼女をじっと見据えていた。
「アンジェリーク。君はどうしたい?」
 息詰まるような沈黙の一瞬の後、オスカーが絞り出すように低く囁いた。
「このまま俺を受け入れるか、それとも何もなかったことにして、ここから引き返すか。──言っておくが、この先に一歩でも踏み込んだら戻れない。平易な道でもなければ、穏やかに楽しいばかりでもあり得ない。それでも敢えて、君が俺の手をとるのなら──俺からは二度と放さない。選ぶなら今だ。決めるのは、君だ」
 抑えた情熱が滲み出す、怖いほど真剣な声だった。アンジェリークは息を詰めて、オスカーが近々と覗き込んでくるのを見つめていた。

「俺を選ぶか? アンジェリーク──?」

 吐息が感じられるほど近くで見つめられながら、アンジェリークは大きく震えた。
 オスカーが怖かったわけではない。これからの展開に怖じ気づいた訳でもない。純粋に、彼が欲しくて体が震えた。

 今、この瞬間まで、彼女の中には彼を恋しく思う気持ちや憧れはあっても、これほど強く欲する気持ちがあったわけではなかった。
 正直いえばこれまでは、試験中の女王候補と守護聖であるという自分達の立場の難しさについても、きちんと意識したことさえなかった。だが今、彼の瞳の厳しさに現実の重みを突きつけられたかのように、唐突にその認識に打たれ、彼をして自らを抑えさせていたものを知り──そしてアンジェリークは、オスカーの言葉の意味をはっきりと理解して震えた。
 事なく女王への道を歩みたいなら引き返せ。非難を恐れず、何もかもを振り捨てても恋に殉じたいなら、この手を取れ。大陸への、ひいては宇宙への愛と責任も捨てられず、それでもなお恋を貫くことをも欲するのなら──共に闘え、と。
 言葉に出されなかった第三の選択肢を、彼の瞳の炎の中に読み取ったその瞬間、これまでの淡い思慕など吹き飛ばすほどの強さでオスカーが欲しいと思った。
 この人は激しい。この人は妥協しない。そういう人だからこそ、欲しかった。そんな彼の隣に立てる自分でありたいと思い、オスカーにもそれと認めて欲しかった。
 何も怖くはない。彼を得られるのなら。

 彼の情熱が飛び火したかのように、一瞬にして燃え上がった緑の炎は、間近で見つめていたオスカーにも確かに伝わった。
 アンジェリークは、オスカーの瞳が純粋な喜びに燃えるのを見た。その手に力がこもり、顔が寄せられ──そして、熱い唇に唇が覆われた。
 それは、意外なほど優しいキスだった。情熱に身を任せる前に、どれほど大切に思っているかをまず伝えておかなければならないと言うかのように、探るような包み込むようなキスが彼女を覆い尽くしてゆく。
 その瞳の烈しさから、熱烈で激しいキスをされるのだとばかり思っていたアンジェリークは、その優しさに瞬間戸惑い、それからうっとりと目を閉じて彼の腕に身を委ねた。
 重ねられた唇から、ぐっと抱き寄せてくるその腕から、彼の熱い想いが流れ込んで来る。そして次第に熱に浮かされたように深まってゆく口づけの中で、瞼の奥が熱くなるのを感じながら、彼女は自分が自身を大きく変える一歩を踏み出したことを知った。


「……あなたが好きです、オスカー様」
 長いキスから解放された後、アンジェリークは小さな、だがはっきりした声で告げた。
 きちんと言っておかなければいけないという気がしたのだ。この先ちゃんと、彼と共に歩いて行くために。
「でも、私、この世界のこともとても好きで──それに自分の責任は、ちゃんと果たさなきゃいけないとも思います。もし……このまま試験を続けていって、もしも私が女王になったとしても、オスカー様は私を求めてくれますか? 」
「言ったろう? 俺からこの手を放すことはない、と」
 オスカーは情熱にきらめく瞳でアンジェリークを見つめたまま、その手をとってゆっくりと口付けた。
「…だが、最もきつい道を選ぶことになるぞ。それだけの覚悟があるか?」
「オスカー様がいて下さるなら、怖いものなんてありません」
 即答するアンジェリークを見つめて、オスカーの目が満足げに輝いた。
「それでこそ俺のお嬢ちゃんだ」
 どこか掠れた声で囁いて、オスカーが再び唇を求めてくる。今度のそれは、激しくむさぼるような荒々しいキスだった。
 その口づけに懸命について行きながら、アンジェリークはオスカーの背に手を回して、一心にかき抱いた。
 そんな自分にうっすらと驚きを感じる一方で、それを当然と受け止める自分もどこかにいる。
 ためらい戸惑い足踏みしていた頃とは、明らかに違う自分。彼女が今踏み出した一歩は、そのくらい大きな一歩だった。


◇◇◇


 一旦踏み出した以上は、前へと進む。その道程が、例えどんなに険しくても。
 時には立ち止まることもあるかも知れないが、決して後戻りはしないし、後悔もしない。

 ──その道は、オスカーと共に進む道であるのだから。

あとがき

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