She's more


◇ She's more ◇



 炎の守護聖、オスカーの朝は早い。
 だいたい日の出の2時間前には起き出して、邸の地下に設けられたトレーニング施設で汗を流すのが日課となっている。
 もっとも、筋肉を増やすことが目的ではないから、筋力トレーニングに関してはさほど多くの時間を割くわけではない。──無駄な筋肉で鎧うことは、俊敏さを損ない、エネルギー消費のロスも多くなるので、実戦においては却ってマイナスなのだ。そちらは基本的なメニューを2セットこなすだけで、主にランニングにたっぷりと時間をとる。それも、ただ走るだけならば、広大な敷地に広がる丘並みや林を抜けるコースをジョギングする方がよほど爽快なのだが、オスカーは敢えて室内でのランニングを選んでいた。
 気分転換を目的とするのなら、それこそ愛馬を引き出して早駆けにでも出ればいい。変化のない室内で、物足りないぐらいのスローペースに設定して淡々と長時間走り続ける。それは、単調さに耐える訓練であり、心身双方の鍛練を目的としたトレーニングだ。
 戦いの場では、どれだけ緊張感を持続させられるかが生死を分けることもある。日頃からそうやって気力を養い、強い意志力を維持することを、オスカーは自らに課していた。そしてそれは、炎のサクリアという極めて激しい力を宿す器として、常に己を厳しく律していかねばならない『炎の守護聖』としての義務でもあると、彼は考えていた。
 その、嫌になるような単調さと戦いながらゆっくり黙々と走るうちに、心が研ぎ澄まされてくる。繁雑な日常の、細々としたあれこれから自由になって、冷静に物事を判断することができるようになる。そうした思索の時間を、オスカーは常々有効に使ってきていた。

 だが、このところ、そうして走る彼の心を占め続けるものは、ただ一人の少女の面影ばかりだ。守護聖として聖殿に出仕している間は意識的に締め出して、もの狂おしい思考の迷路に引きずり込まれることのないよう心がけているだけに、己の内面と独り向き合うことになるこの時間には、否応無しに彼女のことばかりが心に浮かぶ。
 陽に透けるふわふわの金の髪。無邪気に投げかけられる満面の笑み。子供のものでは既にないが、成熟にも至っていない、危うい脆さを感じさせるしなやかな肢体──。引き寄せて抱きしめてしまったら、ふいっと溶け消えてしまうのではないかと思わせる、そんな頼りなさを秘めていながらも、きらめく緑の瞳の奥には、強い意志の力を感じさせる光を宿してもいる。そのアンバランスな魅力が彼を引き付けて離さない。

 いつからこんなにも囚われてしまったのだろうか。それは、彼自身にもよくわからない。
 一目見たその瞬間に、運命の恋だなどと思ったわけではない。それは確かなことだ。なかなかに愛らしいと思いはしたものの、彼の好みの範疇からは外れるお子様だと、瞬時に断じた筈だった。
 豪華なブロンド美人がいいとか、知的なブルネットがいいとか、そういった意味での「好み」というものは、彼にはない。それでも、ほんの少年の頃から漠然と思い描いていた「理想の女性」像というものはあって、アンジェリークという少女はそれには全く当てはまらない、まさに「守備範囲外のお嬢ちゃん」でしかなかった筈だ。彼女はたわいもないことをよく喋り、何でもないようなことにころころとよく笑う、それはもう喜怒哀楽のはっきりした幼げな少女だった。女王候補らしからぬあまりの子供っぽさに、内心あきれることもあったし、ランディあたりの坊やに似合いなんじゃないかと本気で思っていたものだ。
 それが、いつからこんなにまで心を揺さぶってやまない存在になってしまったものか。彼女の瞳の中に、揺らめく火影のかぎろいを見てしまったのは、一体いつのことだったろう。──彼女ならば、もしかしたら自分を受け止めきって、更には包み込んでくれる存在になり得るのではないかと、そんな密かな望みを抱くようになったのは。
 考えても詮ないこととわかっていながら、考えずにはいられない。それほど心は囚われている。
 彼女から投げかけられるその好意が、どの守護聖にも同じように与えられているのだと知りながら、それでもどこかにより深い、特別なものが潜んでいはしまいかと、そっと探らずにはいられない。
 ──アンジェリーク。
 オスカーにとってその名が既に、何の気なしに口にはできないほどに重い存在となっていることなど、当の少女は思いもしていないのだろう。
 一つ、重たい吐息をついたところで、タイマーが軽やかな音をたてて今朝のノルマの終了を告げた。


 シャワー室へ入り、ややぬるめの湯で汗を流した後、熱い湯と冷水を交互に浴びる。胸の奥にもやもやとひっかかって晴れることのないこの思いをも、洗い流してしまいたかった。
 いや──
 捨て去りたいわけではない。ましてやなかったことにしたいのでもない。オスカーは、キュッと水栓を閉めると、ポタポタと滴を落とす髪を片手でうるさげにかき上げた。
 決めかねているから苦しいのだと、わかってはいる。わかっているのに決めかねているから、なお一層苦しいのだ。
 タオルを取ってざっと体を拭い、やや乱暴にがしがしと髪を乾かす手をふと止めて、オスカーは鏡に映る己を見据えた。

 ……自分は、迷っているのだろうか。

 迷いは、確かに存在している。自分が守護聖であり、彼女が女王候補であることは、厳然として動かし難い事実だ。そして、守護聖としての自分の感覚は、アンジェリークが女王としてふさわしい器であることを、日々声高に主張し続ける。
 ロザリアの資質にも不足があるわけではなく、その意味ではアンジェリークを候補から引きずり降ろすということが、罪に値するというわけではない。だが、本当にそれでいいのだろうかと自問するに、明確な答えは出ない。もう、それほど時間は残されていないというのに。
 オスカーは唇をひきしめ、もう一度同じ問いを自分の心に投げかけた。心を澄ませて、己の中の迷いに向き合う。そして、守護聖としての立場を慮る気持ちや、自ら守り支えるべき宇宙への配慮、彼女の夢を尊重したいと思う心などがないまぜになったその迷いの中には、真実彼女を恋しく思うがゆえの恐れやおののきというものも確かに存在することを、彼は苦い思いで認めた。
 それでも、と、オスカーは強く目をつぶる。

 彼女が愛しい。
 彼女を、得たい。
 そこに迷いは──ない。

 再び目を開いた時、オスカーの瞳には決意の色が宿っていた。



◇◇◇



 朝の早い時間に女王候補寮を訪れたオスカーは、アンジェリークを森の湖へといざなった。
 しっとりとした空気の中、まだ少し朝靄がうっすらと残る湖の上に、ぴしゃりと音をたてて魚が跳ねる。その大きさに歓声をあげ、どうして跳ねるんでしょうね、何を考えているんでしょうねと、鈴を振るような声で笑いながら喋り続ける少女から、目が離せない。
 ああ、全く、このお嬢ちゃんときたら。
 夢に描いた理想の女なんかじゃあない。そんなものではあり得ない。
 彼女は──それ以上だ。

 口元がほころびるのを自覚しながら、オスカーはごく自然に彼女の名を呼んでいた。
「アンジェリーク」
 パッと素早く振り向く彼女の瞳が、いっぱいに見開かれる。素早すぎるその反応と、こぼれ落ちそうな瞳に溢れる狂おしいほどの喜びの色が、何より確かに彼女がその呼びかけを待っていたのだと告げていた。
 かつて感じたことがないほどに暖かく甘い痺れが、オスカーの心を満たす。
 オスカーはゆっくりとアンジェリークに歩みより、わずかな緊張をはらんで見上げてくるその瞳を見つめて柔らかく微笑んだ。


「君に、謝ることがある──」


あとがき

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