虹の世界


◇ 虹の世界 ◇



 常春の陽気に調整されているとはいえ、この飛空都市でも夕刻になり陽が傾いてくると、ひいやりと空気が冷たく感じられるようになる。木立が影を長く落とす水辺であれば、なおさらのことだ。
 アンジェリークと共に森の湖でのひとときを過ごしていたオスカーは、ゆっくりと彼らを包み込んでくる冷気に、傍らの少女が寒く感じてはいないだろうかと気づかわしげな目を向けた。
 このまま飽くことなく語り合っていたいのは山々だが、ほっそり小柄な彼女の体が冷えきってしまう前にここから引き上げなければとも思う。
 だが、そろそろ帰るか?という彼の問いに、当の少女は少しだけためらいながら小さくかぶりを振った。

「もう少しだけ…」
 一緒にいたい、という言葉を恥じらいがちに飲み込んだ、はにかむような笑みが心に染み通る。
「──仕方のないお嬢ちゃんだな」
 言葉では軽く揶揄するように言いながら、オスカーは胸の暖まる思いににこりと微笑んだ。
「だったら、場所を変えよう。一緒にくるか?」
「はい」
 どこへと問うこともせず、コクリと嬉しげに頷く笑顔が愛おしい。
「じゃあ行こうか」
 オスカーはその手を軽く彼女の背に添え、アンジェリークに歩調を合わせて歩き出した。

 しっかりと肩を抱くほど親密でなく、ただ並んで歩くだけというほど遠いわけでもないその距離は、今の二人の関係をそのまま表しているかのようだ。
 それをもどかしく思う瞬間もないわけではないが、それでも彼女の心のテンポを大切にしてやりたいと思うから、歩調を落としてゆっくりと距離を埋めていくのも苦ではない。更に言うなら、この微妙な距離感そのものを楽しんでいる自分というのも確かにいて、その感覚はちょっと新鮮だ。
 ただ、少しばかり気掛かりなのは、そろそろ後半に差し掛かりつつある女王試験の展開だ。
 今のところはちょうど互角といったところで、どちらが女王になってもおかしくはない。
 彼女がそれを望むなら、できる限りの力を尽して助力してやりたいと思う。同時に、彼女の身も心も全てを独り占めに、いつも自分の傍らに置いておきたいと思う気持ちも存在する。
 オスカーの心も、微妙だ。矛盾するようでありながら、どちらに傾いていってもおかしくはない危ういバランスの所に留まっている。
 既に彼女に強く惹かれている自分を自覚しながら、それでも「お嬢ちゃん」と呼び掛け続けるのがその証だ。

 オスカーが彼女を名前で呼ぶ時は、二人の関係が大きく動く時であるということを、どちらも無言のうちに察している。
 近ごろはアンジェリークも、彼に向かって「お嬢ちゃんと呼ばないで」とは言わなくなった。
 言えないのだ。二人の距離を一気に縮めるその呪文を、オスカーから引き出してしまうのが怖くて。
 もっと彼を知りたい、彼に近付きたいという気持ちの一方で、恋人未満なこの位置に留まっていたいとも思う心の揺らぎが、そうさせている。

 彼の手が触れている背から、彼女の背に触れている手から、互いに流れる温もりを感じ合いながら、黙ってゆっくりと歩いて行く。
 もう少しこのままでいたいと思うのは、きっと、この想いが一気に溢れ出す時が近いという予感があるせいだ。
 二人は言葉少なに林間の小径を抜けて、聖殿の方へと歩いていった。


 日の曜日の夕刻とあって、聖殿にはほとんど人気がない。オスカーはがらんとした中央階段を登り、アンジェリークがまだ通ったことのない回廊を抜けて、建物の裏手にある瀟洒なテラスへと彼女を導いた。
「──どうだ、いい眺めだろう?」
 小さく感嘆の声をあげたアンジェリークの後ろに立って、オスカーは微かに紅く染まりつつある空の広がりを見やりながら笑った。
「ここから見る空は広々として、心が洗われるような心地がする。めったに人もこないところだからな、一人で落ち着いて考え事をするのに向いているのさ」
「ほんと──素敵ですね」
 ほうっとため息まじりにアンジェリークが小さく囁く。オスカーは片手を軽く手すりにつき、片手をそっと彼女の肩に添わせて、西の地平へと目をやった。

「俺は、この時間が好きだ。昼と夜の狭間にあって、はじめはうっすらと、そして見る間に鮮やかに紅く染め上げられていく空の、その表情の移り変わりがとても好きだ。──短いが激しい、一日の中でこの時間にしか見られないその変化を、俺は愛おしいと思う」
 オスカーは、アンジェリークを見ないまま凛と張った口調でそう言い、それからふっと目もとを和らげて優しく続けた。
「君と、この光景が見られてよかった」
「──オスカー様」
 見つめてくるアンジェリークの頬が、夕陽に照り映えて紅い。オスカーは小さく微笑み返し、それから空の方へ軽く顎をしゃくって、彼女に見るようにうながした。

「ほら、空のあの辺、うっすらと緑色に見えるだろう。普通、空は青いか黒いかせいぜい赤か、そのくらいにしか思われないが、緑なんて色合いもこの時だけは目にすることができる。結構貴重な瞬間だとは思わないか?」
「あ、ほんと…」
 アンジェリークの顔がぱあっと明るくなる。
「ほんとにそうですね。こう、下の方の赤からずうっと上の方へ、どんどん色が変わっていってる。すごく薄いけど、ちゃんと緑にみえるとこもあります!」
 彼女は手すりから半ば身を乗り出すようにして、濃くなり勝る茜色の地平から、燃えるようなオレンジ色、ごく薄い黄色に緑、そしてやがて深い群青から紫紺へと移り変わっていくそのさまを、ぐるっと大きく頭をめぐらせながら追った。
「こら、そんなに乗り出すと落ちるぞ」
 オスカーは笑いながら彼女の体を抱き支え、きらきらと純粋な喜びに輝くその瞳を愛しげに見た。
「すごい、なんだか虹みたいですね!」
 無邪気な笑みに興奮の色をのせて、アンジェリークが嬉しそうにオスカーを見上げてくる。
「虹?」
 少し戸惑って問い返すと、アンジェリークは大きく頷いて、両手を空へと差し伸べた。
「おっきな虹が上から降りてきてるみたいに見えませんか? なんだかこの飛空都市ごと、とってもとっても大きな虹に包まれてるみたい」
 そう言って、輝くような笑顔を向けてくるアンジェリークに、オスカーはふいに胸がしめつけられるような感覚を覚えた。

 ──愛しい。

 体の芯にびんと走ったその思いが、大きなうねりとなってオスカーを包み込む。
 何者にも譲れない。手放したりなどできない。アンジェリークは俺のものだ。

 その背に大きく広がる翼は、宇宙の為にあるものかも知れない。
 夕景に世界を優しく包み込む虹を見る、この少女を女王として戴くことは、世界にとってこの上ない幸福であるのかも知れない。
 それでも、彼女は渡せない。身を引くことなどできはしない。

「アンジェリーク──!」

 言葉は、止める間もなく唇から滑り出していた。
 支えるために回していた手が、彼女を自分の方へと引き寄せるために動く。
 あっという間にオスカーの力強い腕に抱き締められ、逞しい胸に押しつけられて、アンジェリークは息も止まる思いに大きく目を見開いた。
「君が好きだ。離したくない」
 半ば掠れた、熱い告白が耳を打つ。
 強く強く抱き締めてくる腕の中で一瞬おののき、喘ぐように息をついて、それからアンジェリークはおずおずとオスカーの体へと腕を回してその広い背を抱いた。
「…オスカー様……」
 うわずったようなその声と、ためらいがちながらもしっかりと抱き返してくる細い手の感触に、オスカーは甘い痛みに似た激しい歓びに身を貫かれ、どこか苦しげな吐息をついた。
 強く求める気持ちのままに、柔らかな髪に頬をすり寄せて固く抱き締めると、アンジェリークがごく小さく、だがしっかりとした声音で告げた。
「……離さないで」

 その瞬間。彼女は宇宙よりも何よりも自分を選んでくれたのだと、理屈を超えてオスカーは知った。
「離すものか」
 熱く力のこもった応えに、アンジェリークはふうわりと微笑んで睫を伏せ、そしてその唇が小さく「好き」と動いた。


 ──虹に抱かれたこの世界で、君に誓う。
 心から愛している。君を誰にも渡しはしない──決してこの手は離さない。
 俺の全てを君に捧げ、君の全てになりたい。



 やがて、夕陽の残照が地平にわずかな赤みを残し、夜の帳が降りてくる。
 輝き出した星のもと、口づけを交わす恋人達の影が、淡く夕闇に溶けていった。

あとがき

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