「…脱走?」
薄水色のベールをなびかせながら、息せき切って炎の執務室へと駆けこんできた麗しの女王補佐官をまじまじと見つめて、オスカーはおうむ返しにそう言った。
飛空都市から聖地へ戻って3日。255代女王から譲位を受けて即位の儀を終えたばかりの新女王が、数日後にひかえた大がかりな即位の大典の準備の真っただ中で、ちょっと目を離した隙に姿を消したという。
「ええそうですわ、これをご覧下さいな!」
ロザリアがぴらぴらと振り立てる可愛らしいピンク色の紙切れを受け取って目を通し、オスカーは指先で軽く顎をなでた。
──ごめんね、ロザリア。ちょっとだけ出かけてきます。すぐ帰るから心配しないで!
丸みを帯びた少女らしい筆跡は、確かにアンジェリークの…もとい、女王陛下のものに間違いない。
「まあ、『心配しないで』と言われても、はいそうですかってわけにはいかんよなあ」
「当然ですわ! オスカー様も、もっと緊張感を持って下さいっ」
きりきりと柳眉を逆立てるロザリアに、オスカーは苦笑して席を立った。
「わかった。探し出して保護し、連れ帰ればいいんだな」
ロザリアはほっと息をつき、少しすまなそうにオスカーを見上げた。
「…お願いいたしますわ。心あたりはおありですの?」
「そう思ったから、俺のところへ駆けこんできたんだろう? 優秀な補佐官殿は」
うっすら揶揄するように笑うと、オスカーは届いたばかりの白い軍服に剣帯を吊って愛用の剣を佩き、手早くマントの留め金を留めて、ロザリアに軽く片手を上げてみせた。
「心配するな。陛下は必ずお連れするから、補佐官殿は安心して大典の準備の方に専念してくれ」
オスカーは執務室を後にすると、迷うことなくまっすぐに愛馬を駆って、森の湖を見下ろす丘へとやってきた。
この聖地を模した飛空都市で、候補時代のアンジェリークは殊にその場所が気に入っており、何かというとオスカーに連れていってもらいたがっていたものだ。オスカーの故郷に似たその景色を、彼女もまた気に入ってくれたことが嬉しくて、その度に馬を飛ばして連れていってやった。
彼女がいるとすればここだ。オスカーには奇妙な確信があった。
果たせるかな、木立の向こうにピンクのドレス姿の小さな影が、ちょこんと座っているのが見えた。
体の奥がじんわりと暖かくなるような、それでいて胸苦しくもせつない気持ちを抱えながら、オスカーは馬から降りてゆっくりと歩みよった。
「……早かったですね。もう見つかっちゃったんだ」
こちらを振り返らないまま、子供のように立てた膝に両肘をついて頬を支えていた至尊の女王陛下がぽつんと言った。
「補佐官殿が大層心配していましたよ。いかに陛下御自身のお力で平穏が保たれている聖地とはいえ、何事があるかわかりません。突然行き先も告げずに、しかもお一人で出かけられるというのは感心できませんね」
彼女から数歩下がったところで一旦歩みをとどめ、小さな背中に向かって言うと、アンジェリークはハアーッと深いため息をついて自分の膝を抱き、そこへ顔を埋めるようにした。
「…戻らなきゃ、いけませんよね。即位の大典の支度、しないといけないんだし」
つぶやく声は、消え入らんばかりに細い。オスカーが草を踏んで歩みより、その隣にそっと腰を降ろすと、アンジェリークは抱え込んだ膝からちらっと目だけを上げて彼を見た。
「でも、今すぐじゃなきゃいけませんか? もうちょっとだけここにいても、いい…でしょう?」
すねたような甘えるような声に、オスカーは苦笑をもらした。
「仕方ありませんね、少しだけですよ。ですが、戻ってからの補佐官殿のお説教は覚悟なさっておいたほうがよろしいでしょうね」
「…はい」
アンジェリークは顔を上げると、ちょっとあいまいに微笑み、遠慮がちにオスカーを見た。
「あの、もひとつお願いがあるんですけど」
「なんなりと」
「今だけでいいです。敬語、やめてもらえませんか? …落ち着かないです、やっぱり」
恨みがましく見上げてくるアンジェリークに思わずクスリと笑って、オスカーは軽くふざけるように淑女への礼をとると、いたずらっぽく瞳をきらめかせた。
「御心のままに。そう簡単には立場の変化に慣れないかな?」
「っていうより、なんだか不安になるんです。女王でない私って、どこにいっちゃうのかなと思って」
アンジェリークはちょっと恥じるように頬を染め、それからぼんやりと湖の方を見やりながらつぶやいた。
「女王になるっていうのは、自分でちゃんと決めたことの筈なのに…おかしいですよね。なんだかだまされてるみたいな、変な気分なんです。もう、ただの『私』ってどこにもいなくなっちゃったみたいで」
オスカーはふっと笑い、暖かく包み込むようなまなざしでアンジェリークを見つめた。
「君は女王さ。まぎれもなく」
その言葉にたちまちせつなげな顔になるアンジェリークをなだめるように、オスカーは柔らかい声音で続けた。
「そして同時に、アンジェリークという一人の少女でもある。例えその名を呼ばれることがなくとも、そのことに変わりはないんだ。──名を失うわけじゃない。ただ単に、慣習上尊称で呼ぶのが礼儀だというだけのことだ。もし君がそれを厭うなら、変えてしまえばいいという程度のことさ。もっとも、女王の威儀を重んじて大いに反対する方はいそうだけどな?」
ニヤリと笑うオスカーが誰のことを言っているのかは明白だ。アンジェリークは想像して、思わず小さく吹き出した。
「心配するな、アンジェリーク。俺達は、君を見守り支え助けるためにこそいるんだから」
やや気が晴れたようにくすくすと笑う少女をまぶしげに見ながら、オスカーはそっと囁くように言った。『俺達』と言いながら、それはまるで『俺は』と言っているようであり、その声音にはとても大切な告白をするような真剣さが含まれていた。
アンジェリークは、その先を聞いてしまってはいけないような気がして、ぱっと血の上った頬をオスカーの視線から隠すように背を向けた。そして、どきどきと落ち着かない心臓をなんとかなだめようと苦労しながら、ちらりと彼を見やって話題を変えた。
「…あの、それ、新しい正装? 前のよりシンプルですよね」
「王立軍の軍服をベースにデザインさせたからな。動きやすさを重視するよう注文を出したし」
「よく似合ってるわ」
アンジェリークははにかみがちににこっと笑い、それからちょっと首をかしげた。
「でもやっぱり青いマントなのね? そう決まってるものなんですか?」
「ああ、いや、別段そういうわけじゃない。まあ、青というのも炎の一つの相を表わす色だから、歴代の炎の守護聖の正装にもそれなりに使われてきてはいたらしいが。──俺の場合は、これは生家の色なんだ」
オスカーは軽く笑うと、眼下に広がる湖に目をやった。
「故郷の草原の惑星でも、俺が生まれ育った地域は比較的起伏のある丘陵地帯でな。初夏の頃にはその丘なみ一面に、濃い青紫の花が咲く。俺の家系の一族が代々住んでいた一帯には、その中でも特に深い青一色のものが群生していた。それで、『青の貴婦人』と呼ばれていたその花の色が、家のシンボルとされていたんだ」
アンジェリークは何もいわずにじっと耳を傾けている。オスカーはふっと笑って彼女を見た。
「別に、故郷を懐かしむ感傷だけで身につけるわけじゃない。常にこの色をまとうことで己の因り来たる所を意識し、その誇りに恥じない行動を心がけることができる。だから、必ず正装の中に取り入れているのさ」
オスカーらしい物言いに、アンジェリークは小さく笑った。
「大切な色なんですね。…それって、きれいな花ですか?」
「ああ。主星の花でいうなら、ブルーサルビアが一番近いかな? 穂先が白みがかった奴の方が一般的だったが、多分その変種なんだろう。青一色で、普通のものよりもうんと丈が高くてな。膝丈近くもある草の中からでも、更に上へ突き出して草原一帯を青く染める。夏が訪れる直前の、ほんの2週ばかりしか咲かないんだが、満開の頃に一斉に風にそよぐ光景ときたら、言葉にならないくらい見事なもんだったぜ」
誇らしげに語るオスカーの横顔をしばし見つめてから、アンジェリークはドレスの膝を抱いて視線を落とし、ぽつりと言った。
「…見たいな」
「見れるさ」
さらりとなんでもないことのように返すオスカーを、アンジェリークは少し非難がましい目で見た。女王になった自分には、こうして聖地内で出歩く自由さえないじゃない、と。
だが、まっすぐに見返してくるオスカーのまなざしは真剣で、それはアンジェリークをとまどわせた。心臓が、またしても早い鼓動を打ちはじめる。頬が、熱い。
オスカーは彼女を見つめたまま、静かに口を開いた。
「一緒に見よう、アンジェリーク。守護聖でもなく、女王でもなくなったただの人として、いつか共にあの丘に立とう。必ずそういう日が来ると俺は信じる。──君は?」
「………!」
アンジェリークは、彼の強い視線から逃れようとするように慌てて顔を背けた。
「そ、そんなこと…そんな虫のいいこと、願うわけにいかないです」
「何故?」
「だって。だって私は、女王になることを選んじゃいましたし……」
うなだれて口ごもるアンジェリークの手を、オスカーの大きな手がそっとすくいとり、柔らかく握りしめた。
「俺はまだ、君にフラれたとは思ってないぜ?」
そう言われて、アンジェリークの頬にさっと朱がさす。彼女の胸は甘い期待にしめつけられ、早鐘のように鳴っていた。それでもなお、彼女は小さく唇をかみ、彼から目をそらしたままに早口に言いつのった。
「そんなこと。だって、もうしょうがないじゃないですか。私は女王になっちゃったし、女王と守護聖では、触れることだって許されない…」
「だが実際、こうして触れている」
オスカーは囁きながら、彼女の手に口づけた。アンジェリークが息を呑む。
「許されないことだと君はいうが、では許さないのは何者だ? ──アンジェリーク、宇宙に対する女王の義務なんて、本当はただ一つに過ぎない。それが何かわかるか?」
「…ひとつ……?」
震える声が、のどにかかって掠れた。オスカーが微笑む。だがその瞳は怖いくらいに真剣だ。オスカーは、ゆっくりと口を開いた。
「女王自身が、幸福であること」
そう言いながらそっと白いなめらかな頬に手を添えると、オスカーは大きく見開かれた緑の瞳を覗き込んだ。間近にオスカーの瞳の輝きを見、その吐息を感じて、アンジェリークの体は震えた。
「宇宙の意思とはすなわち女王の意思であり、女王の幸福こそが宇宙の幸福だ。だから、誰よりも幸福であれ、アンジェリーク。俺は──そのためになら、なんでもする──」
ほとんど吐息に紛れるほどの掠れた囁きと共に、頬に、額に、熱い唇が掠めては離れる。アンジェリークは思わず目を閉じ、ぎゅっと彼の腕を掴んだ。
そのまま押し返したいのか、それとも身を寄せていきたいのか、自分でもわからない。
「愛している、アンジェリーク──我が女王、俺の唯一の女神──」
優しさと愛しさにあふれた、どこか誇らしげな宣言に、アンジェリークの腕からふっと力が抜けた。同時に唇が柔らかく覆われる。一瞬おののいて、それからくたりと身をあずけてくるアンジェリークのしなやかな体をしっかりと抱きしめながら、オスカーもまたその想像以上に甘い感触に酔った。
やがてオスカーが実に名残惜しげに唇を離し、そっとアンジェリークの髪をなでながら言った。
「…いつか本当に、一緒にあの丘へ行こう。あの青い青い花の波を、君に見せたい」
情熱的なキスの余韻にまだ半ばぼんやりとしながら、アンジェリークはせつなげにオスカーを見上げた。
「行けると…いいな……」
「いいな、じゃない。行くんだ」
あまりに断定的なその口調に、アンジェリークはちょっと目をみはり、それからくすっと小さな笑いをもらした。
「オスカー様が言うと、なんだかほんとになりそう」
「なるのさ」
オスカーは笑って、アンジェリークをぎゅっと強く抱きしめた。
「言ったろう? 女王の意思が宇宙の意思だって。──ということは要するに、俺達が共に聖地を離れる時を迎えられるかどうかだって、君の無意識のなすがままってことさ。俺はそう信じる。アンジェリーク、君は?」
「…オスカー様ったら!」
信じるだろうと言わんばかりに繰り返された問いに、アンジェリークはおかしくなった。ほんとになんて人だろう。この人にかかったら、叶わない夢なんかないみたいだ。
「幸せには、自分でならないとな?」
いたずらっぽい光をその瞳に浮かべ、片眉を上げて問いかけてくるオスカーの首筋に、アンジェリークはきゅっと自分から抱きついた。
「──はい!」
弾んだ声で答えながら、彼女は自分の中に確かにはりつめた力が湧きあがってくるのを感じていた。
宮殿へ戻ったら、ロザリアに言って青い石をちりばめた指輪を作ってもらおう。女王の盛装を身にまとっている時も、そうでないときも、いつも身につけていられるように。オスカーを支えているというその色が、女王として立つ自分をもきっと支えていってくれる。
そうして、いつの日か一緒に草原の星へ降り、二人で初夏の青い丘に立つのだ。
さあっと風が渡り、二人を取り巻く草が一斉に波打った。
一瞬、青く波打つ幻が重なって消える。
オスカーが黙ったまま立ち上がり、アンジェリークに手を差し伸べた。その手をとって彼の正面に立ち、アンジェリークは微笑んだ。
「帰ります──オスカー。来てくれてどうもありがとう」
「この身はいつでも陛下のためにございます」
かしこまって身を折るオスカーのどこか芝居めいた口調にちょっと笑って、それからアンジェリークはくるりと身をひるがえし、しっかりと歩き出した。
自ら選んだ、女王の道へ。そして──まだ見ぬ青い丘へ向けて。