Be My Valentine


◇ Be My Valentine ◇



 暦の上では二月とはいえ、うららかな常春の陽気に調整された飛空都市の朝。
 柔らかな光が差し込む女王候補寮の自分の部屋で、アンジェリークは先ほどからせっせと細かい作業にいそしんでいた。
「……六、七、八、と。よし!」
 テーブルの上には、綺麗にラッピングされた包みが九つ並んでいる。
 赤い包みが一つ、それよりはやや小ぶりな金色の包みが八つ。
 アンジェリークは満足そうにうなずくと、それらを一つずつ丁寧にバスケットへと詰めていった。最後にもう一度、赤い包みにかけられたリボンの形を念入りに整えてから、それもきちんと収めてバスケットの蓋を閉める。
 さて、とバスケットを持ち上げようとしたところへ、軽いノックの音がした。

「…? 誰だろ」
 こんなに早くから、といぶかしみながらアンジェリークがドアを開けると、そこには見覚えのない壮年の男性が立っていた。もっとも、この女王候補寮に不審な者が入り込める筈はない。部屋の前まで通されたからには、彼女にちゃんとした用事がある人物である筈だった。
「何か?」
 小首をかしげて問いかけると、彼はアンジェリークに向かって丁重に一礼し、お届けものでございます、と告げた。
「お部屋の方へ運び入れさせてよろしいでしょうか?」
「あ、はい…」
 アンジェリークはうなずくと、ドアを大きく開いて部屋の中へと身をひいた。
 その男性が、背後に向かってなにやら身振りで指示を出した次の瞬間、アンジェリークはあっけにとられて立ちつくした。
 数人の手によって次々に運びこまれてくる花、花、花。大きな花瓶に活けられたそれは、全て色とりどりの薔薇だった。テーブルの上はもとより、机、チェスト、窓辺から果ては床の上に至るまで、どんどん運び込まれる薔薇で埋め尽くされていく。
 アンジェリークが唖然としている間に、彼等は手早く作業を終えて、最後にもう一度男性が恭しく頭を下げて出ていった。
 部屋中に溢れかえった薔薇の中にぽつんと取り残されて、アンジェリークはしばらく言葉も出なかった。
 よく見ればそのさまざまな色彩は、全て柔らかなピンクと黄色と白系統で統一されており、部屋の元々の色調と調和して、数の割にはうるさい印象はない。それでも部屋一杯に広がる芳香に、なんだか酔ってしまいそうだった。
「…………何、考えてるの……」
 こんなことをしでかす人物なんて、一人しかいない。いるわけがない。アンジェリークが憮然としながらつぶやくと、いいタイミングでその人の声が後ろから降って来た。

「そりゃ、どれだけ君が愛しいか、さ。決まってるだろう?」

 …やっぱり。
 アンジェリークは小さくため息をついて振り返り、なんだかとても得意げな恋人をふり仰いだ。
「オスカー」
 とがめるようなその声音に、オスカーはいかにも楽しそうに笑って、手にしていた一輪の紅い薔薇を差し出しながら彼女の前に跪いた。
「我が愛、我が心の光、ただ一人の俺のレディ。あなたの崇拝者の求愛を受け入れて下さいますか?」
「──…もう!」
 うっすらと頬を染め、困ったように笑って、アンジェリークは彼の手からその花を受け取った。しかしオスカーはまだ立ち上がろうとはせず、軽く眉を上げて無言の要求を投げかけてくる。アンジェリークはくすくす笑いながら、身をかがめて彼の頬に軽いキスを贈った。
 オスカーは嬉しそうに微笑んで立ち上がると、恋人の華奢な体を腕の中に抱き込んだ。
「おはよう、俺のアンジェ。贈り物は気に入っていただけたかな?」
「ずるいわ、オスカーったら。今日は女の子から男の人に愛を告げる日なのに」
「ほう? そんな習慣は知らないな」
 アンジェリークが笑いながら抗議したのを、オスカーはしれっと受け流した。それから少し意地の悪い目になって、テーブルの上で薔薇に埋もれる格好になっているバスケットを一瞥した。
「ましてや、『日頃の感謝をこめて』だか何だか知らないが、複数の男共にその『愛』とやらをばらまこうだなんて、一体全体どこの世界の話だろうな?」
「意地悪ね!」
 アンジェリークはパッと頬を赤らめて、オスカーの腕から逃れようとした。だが、オスカーはがっちり彼女を捕えて離さない。
「俺の理解じゃ、この日は男が女に情熱をこめて愛を贈る日さ」
 アンジェリークの瞳を覗き込み、ゆっくりと顔を近づけながら、オスカーは甘く低く囁いた。
「ずっと…俺だけのヴァレンタインでいてくれるだろう?」
「ええ、それはもちろん──」
 恥じらいがちに答える声は、熱いくちづけに飲み込まれた。

「……だけど、皆様のところには行くからね。せっかく用意したんだもの」
 長いキスからようやく解放されて、ほうっと息をついてから、アンジェリークはほんのり染まった目元もそのままにオスカーを軽く睨んだ。
「そんなもの、人をやって届けさせればいいだろう?」
 オスカーはくすくす笑い、その愛らしい目元に唇を寄せようとして、アンジェリークに押し返された。
「あら、ダメよそんなの。フェリシアの民だってもうじき中央の島にたどり着くんだし、今日はいい機会なんですもの」
 アンジェリークはきっぱり言って、それからくすりと笑うといたずらっぽくオスカーを見た。
「聖地に行ってからだって、皆様にはお世話になるんだし。守護聖方との親交を深めることも、補佐官のお仕事のうちでしょう?」
「…あまり熱心に深めちまって、親密になり過ぎないで欲しいもんだがな?」
「もう、オスカーったら!」
 揶揄されて、アンジェリークはぽすっと拳で彼の胸を叩いた。それから、彼女はふと真顔になり、そっとその胸に頬を預けてつぶやいた。
「──お礼が言いたいの。こんなふうに途中で候補を辞退しちゃったのに、ちゃんと暖かく受け入れて下さった皆様に。本当に今、幸せで…こんな幸せを認めてくれた方達に、きちんとお礼を言っておきたいの」
「アンジェリーク」
 オスカーの暖かな腕が、しっかりと彼女の体に回された。その優しく力強い抱擁が、どんな言葉よりも雄弁にオスカーの心を伝えてくる。アンジェリークはうっとりと、その幸福な暖かさの中に身をゆだねた。
 しばし無言で抱きあった後、オスカーは軽く彼女の髪に口づけて小さく笑った。
「仕方ないな。じゃあさっさとすませちまおうか」
「…ついてくる気?」
「当然だ。どうせ最後に俺のところへ来るつもりだったんだろう? 面倒なことはとっとと終らせて、ゆっくり甘い時を過ごそうぜ」
 そのいかにも自信たっぷりな笑いがちょっとばかり悔しいが、図星なだけに言い返せない。その代わりにアンジェリークはあらためて、薔薇に埋もれた部屋をぐるりと見回した。
「それはいいけど、この薔薇、どうしようかしら」
 何を言い出すのやらとしげしげ見下ろしてくるオスカーをちらりと見上げ、アンジェリークはささやかな反撃を試みた。
「こんなに沢山運び込んじゃって。机もテーブルも一杯で、これじゃなんにもできないじゃない。──せっかくだから誰かに頼んで運んでもらって、聖殿にでも飾ってもらっちゃおうかな」
 オスカーはいくぶんわざとらしく、嘆かわしげなため息をついた。
「人が心をこめて贈った花をさっさとよそへやっちまおうだなんて、なんてつれない恋人だ」
「あら」
 アンジェリークはするりと彼の腕から抜け出し、ずっと手にしていた紅薔薇をそっと口元に寄せて、花のように笑った。
「本当に大事なのは、たった一つの紅い薔薇だわ。──そうでしょう?」


 オスカーは微笑み、賢い男がとるべき唯一の方法をもって彼女に応えた。


あとがき

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