◇ Winter Star ◇
「補佐官様」
柔らかくそう呼び掛けられて、真剣な顔つきで書類に集中していたアンジェリークは、ぱっと勢いよく顔を上げた。
「はいっ」
授業中に突然指名された女生徒さながらの大真面目な返事とその表情に、彼女付きの秘書官は思わずにこりと微笑んだ。──本当に、この新任補佐官様はその振る舞いの一つ一つが初々しくも可愛らしい。
「たった今、研究院の方から連絡が参りました。オスカー様が赴いておられる星の分院へ、帰還のための次元回廊を開く準備をしておくよう指示が入ったそうです」
そう聞いて、途端にアンジェリークの顔がぱあっと明るく輝く。彼女は手にしていた書類の束をそのままぱさりと机に置くと、いそいそと立ち上がった。
「まあ、今回は特に早かったのね! すぐ行くわ、ありがとう」
一応は女王補佐官らしく落ち着いた応対をしなければと努めてはいるようだが、浮き浮きと弾むような声には素直な喜びが隠しきれずに溢れている。秘書官は、はいと丁寧に一礼してから、ちょっと頬を緩めてアンジェリークに笑いかけた。
「ようございましたわね。きっとオスカー様も早く補佐官様にお会いになりたくて、急いで予定をこなして戻っていらっしゃるんですわ」
にこやかにそう言われ、アンジェリークは淡い桃色のベールをせっせと整えていた手を止めて、ぽぽっと頬を赤く染めた。
「そ、そんなことないと思うわ、オスカー様はあれでお仕事にはとっても真面目だしご自分の責任に厳しい方だし、いつも予定より早め早めに帰ってこられるのだってやることに無駄がないってことなんだと思うし、今回だってやっぱりその、ええと、きっとお仕事がものすごく順調に行ったんじゃないかと──」
ベールをいじりながら早口でそうまくしたてるアンジェリークに錫杖を渡してやりながら、秘書官は笑って大きくうなずいた。
「それはもちろんでございますとも。さ、お迎えに行かれるのならお急ぎにならないと」
「は、はい」
ほんのり頬を染めたまま、せっかく整えたベールをなびかせるようにして、いそいそぱたぱた飛び出して行く。そんな彼女の姿を見送って、秘書官はくすくすと楽しげな笑いをもらした。
照れ隠しのつもりが結局惚気になってしまっていることに、自分では全く気付いていない辺りがなんとも可愛らしい。
なんだかんだ言って、オスカー様だってアンジェリーク様に一刻も早く会いたくて予定を前倒しまでして帰って来られることに間違いはないのだ。分院まで戻ってからでもよいものを、わざわざ外から事前に指示して次元回廊の準備をさせておくなど、寸暇を惜しんで戻ってこようとしている何よりの証拠ではないか。
確かに彼は以前から、外界に出ても大層効率良く仕事をこなす方ではあったけれど、昔はそうしてできたゆとりをちゃっかり現地での気晴らしに当てていたことを、古参の彼女は知っていた。
その頃の、どこかわざと偽悪的なポーズを取ってみせていたようなオスカーも、奇妙に人を惹きつける魅力を放っていたものだったが、今のように大らかに開けっ広げにアンジェリークへの愛を公然と示しているような彼の方が、個人的には好もしい。──なにより、彼自身がずっと楽そうで自然体であるのがいい。聖地の大抵の女官がそうであるように、彼女もかなりのオスカーびいきであったから、彼が生き生きと楽しげにしているのを見るのはそれだけで十分喜ばしいことだった。
それに、その相手がアンジェリークだというのがまたいい。あの可愛らしい新任補佐官は、素直な明るいその魅力で、聖地中の老若男女をまたたく間に虜にしてしまった。そんな彼女と炎の守護聖のカップルがいかにも幸せそうにしていることは、全般に好意的に受け止められている。
何と言っても、守護聖の機嫌がいいのは宇宙が安定している証拠でもあるし、何よりこの二人が幸福そうだと、見ているこちらの方まで幸せになってくるのだ。
聖地は平和だ。凛として力溢れる気高い新女王のもと、守護聖達は皆、年少の者にいたるまでどこか自信に溢れて晴れやかであるし、明るい笑顔で周囲にあたたかな幸福感を与えてくれる補佐官の瑞々しい魅力が、さらに輝きを添えている。新しい時代が始まったのだという実感と、それに立ち会えたことの喜びが、誰の胸にも活力を与えてくれていた。
オスカーとアンジェリークの幸せそうな姿は、そんな明るい日々の一つの象徴のように捉えられていた。
◇◇◇
「次元回廊を開きます」
アンジェリークは、壮麗な装飾を施された扉の前で、型通りに錫杖をかかげながら重々しく宣言した。
実際に外界との間に回廊をつなぐのは王立研究院のスタッフの仕事であるし、本当は別にいちいち女王補佐官が立ち会う必要もないのだが、今回はなにぶん帰還するのが守護聖であり、それを迎えに補佐官も同席しているのだから、きちんと儀礼的な手続きも踏んでおくのが筋だということであるらしい。
ともあれ、彼女の宣言と同時に恭しく重い扉が開かれ、柔らかく躍動するような光に満たされた空間がその向こうに広がった。
見守るうちに、無数のこまかな色彩が躍る光の幕のようなその空間が一瞬ゆらりと歪み、陽炎のようなその揺らぎの中から、大股に歩み出てくるオスカーの姿が浮かび上がって輝いた。その瞬間、アンジェリークの心は躍り、なんて凛々しくて立派なんだろうという感動が胸を満たした。
オスカーが歩みを進めると共に、彼を包み込んだ光輝は背後へと去り、彼はそのまま扉をくぐってしっかりと揺るぎない足取りでアンジェリークの方へ歩み寄ってきた。
その視線は、光の幕の向こうから現れた瞬間から変わらずアンジェリークの瞳を捉え、一時もそらされない。出迎える他の者の姿には目もくれず、ただひたすらに真っすぐにアンジェリークだけに向かってくる彼の強い思いを感じて、彼女の心は喜びに震えた。
剛毅な意志力を示すように引き締まった面には、その唇の微笑みがなければ怖いくらいかも知れないと思わせるようなものがある。その強い瞳が熱情をたたえて喜ばしげにきらめくのを見て、アンジェリークは物も言えずに、ただ息をつまらせながら彼を見つめ返すことしかできなかった。
「──アンジェリーク」
そう一言だけ発し、オスカーが腕を広げて彼女を胸の中に抱き込む。
そのままぎゅっと抱き締められて、アンジェリークはほんの少しくすぐったい思いに頬を染めながら、逞しいその胸にそっと身を寄せた。
周囲にはたくさんのスタッフがいるし、次元回廊からはオスカーの随員も次々に出てきている。そんな中で堂々と抱擁されるのは、最初のうちはなんだかとても恥ずかしく、落ち着かない気分にもなったものだった。しかし、オスカーはもとより他の人たちも平然としているし、どうやら誰もがちっとも気にしていないらしいとわかってからは、彼女も素直に彼の腕に抱かれるようになっていた。また、主星の空港などでよく見る光景と大して変わらないかなと思うようになってからは、気恥ずかしさも大分薄れて、最近ではいきなりのこの抱擁にもだいぶ慣れた。
それに、外界にいたオスカーにしてみたら、彼女の体感よりもずっと長い間離ればなれになっていたのだ。それを思うと、彼の気持ちがやっぱり嬉しい。
「…お帰りなさい」
囁くようにそう言って、アンジェリークは彼の背中に手を回しながらちょっとだけ小さな抱擁を返した。
頭の上でオスカーが嬉しそうな笑い声をもらし、更にしっかり抱き締めながら、彼女の髪に頬をすり寄せてきた。
「ただいま、アンジェ」
額に当たる彼の頬が、ひんやりと冷たい。マントの肩も、なんだかしっとり湿って冷えているようだ。
そういえば、今回の出張先は真冬の時期に当たっていたんだっけと思いあたり、アンジェリークはちょっと身じろぎをしてオスカーを見上げた。
降り掛かった雪の名残りででもあるのだろうか、笑顔で見下ろしてくるオスカーの髪が、ほんの少しだけ濡れている。しっとり湿って色味を深めたその前髪に軽く触れながら、彼女は小さく微笑んだ。
「オスカー様、冬の匂いがするわ」
そう囁くと、オスカーは大きく笑って腕にぎゅっと力をこめてきた。
「光り輝く春そのものの俺のお嬢ちゃんに早く会いたい一心で、真っすぐ次元回廊に飛び込んだんだ」
そう言ってくすくす笑い、もう一度冷たい頬を彼女に擦り寄せてから、オスカーはアンジェリークを解放した。
それからすっと守護聖の顔に戻ると、「やるべきことを先に済ませなけりゃな」と言いながら、随員の方に手を伸ばして報告書のファイルを受け取る。そうして彼は、アンジェリークをうながすようにして、謁見の間へと足を向けた。
きびきびとした彼の足取りについてさかさか歩きながら、こういう切り替えが好きだなあとアンジェリークはこっそり思った。
自分だけに向けられる甘く優しい表情ももちろん大好きだけれど、きりっと引き締まった仕事の顔もとても好き。そんな思いにふと微笑んだアンジェリークを見やって、オスカーがその瞳に何もかもを見通したような楽しげな光を躍らせた。
「陛下への帰還報告を済ませたら、ジュリアス様と打ち合わせだ。その後ルヴァとも二、三の擦り合わせをしなきゃならんが、それは大して時間はかからんだろう。──とにかく、定時きっかりに迎えに行くから、それまでに今日の仕事は全部きっちり仕上げておけよ?」
そう言いながらその表情にちらりと宿る熱っぽい艶はひどく雄弁で、アンジェリークは思わずどきりとして頬を染めた。
そんな彼女を横目で見やりながら、オスカーは大層満足そうに上機嫌な笑いをあげたのだった。
◇◇◇
その夕刻。時差の為に空腹を訴えたオスカーに合わせて早めの夕食を取り、二人は早々と居間へ引き上げて、ソファでゆったりくつろいでいた。
やっと人心地がついたという風情でどっかりソファに身を預けているオスカーの傍らに半分潜り込むようにして、アンジェリークは彼の体に腕を回してきゅうきゅうと抱きついていた。
本当は、ずっとこうしたいと思っていたのだ。誰はばかることなく彼をしっかり抱きしめて、その胸に頬擦りしながらオスカーの匂いを胸一杯に吸い込む。アンジェリークは、彼の匂いが大好きだ。彼はいつも、さらりと清潔で暖かみのあるいい匂いがする。この男らしい香りと温もりの中に包み込まれていると、なんだかすごく落ち着けるのだ。
そうやってアンジェリークがオスカーの存在を楽しんでいるのと同時に、オスカーもまたアンジェリークの存在をしっかり味わい満喫しているのがわかる。彼女の肩を抱いた手が柔らかな髪先を弄び、そして髪の香りを楽しむようにしながら、頭の上に何度もキスが落とされる。嬉しくなってすりすりと抱きつくと、耳の下でオスカーの笑い声が低く反響して響いた。
笑いながら顔を上げる。同時に下がってきた彼の顔も、嬉しそうな笑みに満ちている。笑い合いながら唇を重ね合い抱きしめ合うこの一瞬の、なんという快さ。
「…おかえりなさい」
唇を少し離して、もう何度も言っているその言葉を、吐息まじりにまた告げる。
言葉の音は違っても、それは全く「愛しているわ」と告げているに等しい。そのことはオスカーにもちゃんと伝わっていて、彼は鼻先を彼女の鼻に擦り付けながら、「愛しているよ」と答えてきた。
ふわあっと胸の内に広がるこの幸福感は、きっと笑顔に映って彼の目にもちゃんと見えている。だってオスカー様のこの笑顔にも、今この人が感じてる幸せな気持ちが溢れているのがわかるもの。
「オスカー様、大好きよ」
もう一度そう言って、アンジェリークは最高の笑顔に面を輝かせた。
オスカーが少し眩しげに目を細め、彼女の髪を大きく撫でながらじっと見つめて吐息をついた。
「──どんなに君に会いたかったか。外界への出張は、どうしても長くなるのが難点だな」
「今回は真冬だったし、大変だったでしょう」
アンジェリークがねぎらうように微笑むと、オスカーはちょっと笑って彼女の額に小さくキスをした。
「それほどでもないかな。前回、どっしり蒸し暑い星に行った時の方がよほど堪えたぜ」
そう言って思いきり顔をしかめて見せるオスカーに、アンジェリークはくすくすと笑った。
「あれはさすがにげんなりした顔で帰ってきてたものね。でも今回も急だったし、やっぱり寒さは身にしみたんじゃない?」
「ああ」
オスカーは笑って、開け放たれた窓の外へと目をやった。
既に陽は落ち、藍色の夕闇がしっとりと降りてきた中で、暖かく柔らかな風がほのかに甘い香りを運んでくる。いつもほとんど変わらない、聖地の香しい春の宵だった。
「帰ってきてみると、聖地はやはり暖かいなと思う。だがまあ、たまに冬の寒気に会ってこそ、この常春の心地よさを一層楽しめるってもんさ」
常春の心地よさ、と言いながら、オスカーは心底愛おしそうな顔をしてアンジェリークの頬を撫でた。アンジェリークはとくんと一つ鼓動が高まるのを感じ、うっすらと頬を染めてはにかむような笑みを返した。
そんな彼女に優しい笑顔を向けてから、オスカーはふと少しだけ真顔になった。
「…それに俺は、冬の空気のあのぴんと張り詰めた感じが結構嫌いじゃない」
そう言いながら、彼は一瞬どこか遠くを見る目になった。こういう目をするとき、彼の心は遠い草原へと馳せられているのだ。アンジェリークはそう思い、黙って彼をじっと見つめていた。
「冬の冷気を思うとき、身も心も引き締まるようなあの厳しさも、確かに俺の一部を構成するものなのだと、そう思わせられることがある。それを思い起こさせてくれる真冬の地へと出ることは、ある意味俺にとっては意義深い」
朴訥ともいえるような真面目な口調でそう言ってから、オスカーはちらりとほんの少しきまり悪げな笑みを口の端に浮かべた。アンジェリークは笑わずに、真剣な面持ちでオスカーを見上げた。
「……あなたの瞳は、冬の夜空に輝く星の色ね」
厳粛な口調でそう言って、それから彼女はにこりと微笑んだ。
「大好き。オスカー様」
他には何も言う必要がないというように、それだけ言って瞳をきらめかせるアンジェリークに、オスカーがすっと目を細めた。その瞳が、にわかに青白い情熱を宿して輝く。
「冬の寒さの中にあって、実感できることがもう一つある」
その低い声音の中に潜んだ艶に、アンジェリークは胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
「自分の中で、熱い血潮が燃えていることを強く感じるのさ。──確かめてみたいかい、お嬢ちゃん?」
挑戦的にきらめく瞳に躍るその炎が、いつもアンジェリークの胸にも火をつける。
彼女はゆるやかに微笑み、その細い腕を伸ばしてオスカーの首に巻き付けた。
「──おしえて、オスカーさま」
ついっと顔を寄せ、彼の唇の上でそう囁くと、オスカーが喉の奥で満足げな唸り声を洩らした。
彼は立ち上がりざま、軽々とすくいあげるようにして彼女を抱き上げ、飢えたような熱烈なキスを仕掛けてきた。
そのまま寝室の方へ大股で運ばれながら、アンジェリークは彼の顔を抱え込むようにしてそのキスに存分に応えた。
「覚悟しろよ、お嬢ちゃん」
寝室のドアを開けながら、オスカーが熱い息づかいの下から脅すように言った。
「……長い夜になるぜ?」
そう言ってオスカーは太い笑い声を上げ、それからバタンと足で扉を閉めたのだった。
《 あとがき 》
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