オーロラの夜


◇ オーロラの夜 ◇




 アルカディアには、古くからのさまざまな言い伝えがある。こうして次元のはざまへと落ち込んでしまうまでは、ごく普通に連綿と歴史を紡いできた星の一部であったのだから、当然と言えば当然の話だ。
 そしてまた、そうした言い伝えにちなんだ、この地に独特の祭りもある。
 ちょっと前にも「雪祈祭」という祭りの話を聞いて、アンジェリークが張り切って雪を降らせたことがある。雪をこの地を守護する天使の羽と信じ、白鳥の羽をそれに見立てて降らせ感謝と祈りを捧げるというその祭りに、本当の天使が本物の雪を降らせたのだ。
 ロザリアをはじめ周りの者達は、大陸全体にバリアを張り続けるため力の大半を使っている女王への負担を心配したものだが、当のアンジェリークは「このくらい平気平気!」とすこぶる楽しげかつ嬉しそうに雪を降らせてみせ、その効果にご満悦の様子だった。
 もともと彼女は、その茶目っ気を発揮して聖地に時ならぬ雪を降らせては喜ぶようなところがあったし、短時間アルカディアに少量の雪を降らせてみせるくらい、大した負担にもならなかったものらしい。アルカディアの民も大層喜んでいたし、人心に明るさをもたらすことに寄与したことも確かなことではあった。
 しかしそれに味をしめてか、今度は別の言い伝えを元に「オーロラを出す」と言い出したのには、周囲も少々驚いた。
 ちょっと温度や湿度を操作して天候を左右するのとはわけが違う。ちゃんと人の目にそれらしく映るだけのオーロラを発生させて、ある程度の時間それを維持するとなると、これは結構なエネルギーを要する筈だ。
 そう言って諌めるロザリアやジュリアス達ばかりでなく、エルンストやレイチェルもやんわりと危惧を訴えたのだが、女王陛下が必殺笑顔でにっこり笑って「もう決めたの」と言い切ってしまっては、もはや誰にも反論のしようがない。
 もっともそういう局面に至っても、一人だけ彼女に翻意を迫ることができる人物がいることはいるのだが、今回彼はさっさと「陛下の御心のままに」と礼をとってしまったので、こうなるともう処置なしだ。
 ──そのようなわけで。アンジェリークが心底嬉しそうににこにこと、「決まりね! じゃあ住民の人たちに、三日後の晩にオーロラが見られるよって伝えてあげてちょうだいね?」と宣言し、その結果急遽アルカディアの地において、「夜想祭」なるイベント開催が決定したのであった。


◇◇◇


 その夜想祭の当夜。
 女王補佐官ロザリアは、仮の女王宮の前庭に出て、ひとり夜空を見上げていた。
 本当は、アンジェリークの心身にかかる負担を慮り、今回は自分の中にも一応備わっている女王サクリアでサポートしようと申し出たのだが、いいからいいからとアンジェリークに固辞されてしまった。
 それでも心配だから傍にはついていると、そう主張もしてみたが、「ロザリアにはちゃんと綺麗に出来てるかどうか、見え方チェックをお願いしたいの!」と、本人からきっぱり告げられては仕方がない。それにまた、不承不承に女王執務室を退去しようとしたところで入れ違いに炎の守護聖がやってきたとあっては、なるほどそういうことでしたのねと納得するしかなかった。
 要するに、オスカーと一緒に協力してオーロラを出してみたかったのだ、アンジェリークは。
 オーロラにまつわるこの地の言い伝えが頭をよぎり、しょうがないわねと吐息まじりに親友の少女を見やったら、彼女はいたずらっ子のようにちらっと舌を出し、照れたようにえへへと笑って返してきた。
 まあそういうことなら、後はオスカーに任せておいてもいいだろうと判断を下し、ロザリアは軽いショールを肩に羽織ってこうして前庭へと出て来たのだった。


 星がちらつく夜空には、まだオーロラは出てきていない。多分もう少し時間がかかるだろうと思いながら、胸の前で軽くショールをかき合わせたところへ、横合いからのんびりとした声がかけられた。
「あー、ロザリア…?」
 くるりとそちらを振り向くと、ルヴァがにこにこといつもの柔らかい笑みを浮かべながら歩み寄ってくるところだった。
「あら、ルヴァ。こんな時間にどうなさったんですの?」
 いつも彼の姿を見ると湧き上がってくるほのぼのとした暖かさを胸に抱きながら、ロザリアはにっこり微笑んでみせた。
 ルヴァはちょっと照れくさそうに笑いながら、彼女の傍までやってきた。
「ええ、実を言いますとね、今夜この時間に仮宮へ来て、ここからオーロラの見え方を確かめて欲しいと、そう陛下から内々のお達しがありまして。…その、あなたと一緒に…ということで」
「…ま」
 ロザリアは僅かに自分の頬に血が上るのを感じ、軽く目を瞬かせた。
(陛下ったら。何かまだ一つくらい企んでいることがありそうだとは思っていたけれど、こういうことでしたのね。…全く、あの子ったら)
 どこか面映いようなくすぐったい心持ちでルヴァを見上げるロザリアに、彼はゆったりと首を傾げて、遠慮がちに問うてきた。
「ええと、その、そんなわけで、ご一緒させて頂いてもよろしいでしょうかねー?」
「ええ、勿論ですわ。…でもよろしかったんですの? せっかくの珍しいお祭りですもの、本当は街の方へでも出かけてみたかったのじゃありませんこと?」
 ほんのり仄かな嬉しさが胸を満たすのを感じながらも、ロザリアはそんな風に尋ねてちらりとルヴァを見た。ルヴァは「ああ」と少し笑ってみせたものの、やっぱりにこにこと穏やかな表情で、おおどかな頷きを返してきた。
「確かに興味深い催しだと思わないでもないですが。でも私はどちらかと言うと、にぎやかな町へ出るよりもこういう方が落ち着きますのでねー。ご心配にはおよびませんよ」
 ルヴァはそう言ってから、少し目を細めてロザリアを見た。
「…そういうあなたの方こそ、えー、一緒に夜想祭へ行こうと誘ってくるような人でもいたのではありませんか…?」
 僅かに、本当にほんの少しだけ、探るような響きを含んだその声音に、ロザリアはにっこり笑ってかぶりを振った。
「いいえ、残念ながらお一人も。──もっともわたくしは雪祈祭の折にも陛下とご一緒しておりましたし、そういうものだと思われていても何の不思議もありませんわね?」
 彼女はそう言うと、ふふっと笑って優雅に肩をすくめてみせた。
「本当は今日も陛下のお傍について、できればお手伝いをしようとも思っていたのですけれど。わたくしも、こちらでオーロラを見るようにと言いつかりましたの」
「陛下のお傍には、今…?」
 ルヴァがちらりと、彼にしてはどこか面白がるような笑みを浮かべて尋ねてくるのへ、ロザリアはくすりと笑って頷いた。
「ご推察の通り、オスカーが詰めておりますわ」
 そう答えながらロザリアは、オスカーとのやり取りを思い起こして苦笑を浮かべた。

 案内も請わずに堂々と、いかにも当然という顔つきで女王執務室に入ってきて「警護に参内した」と一礼したオスカーは、嫌になるくらいに綺麗なウィンクを決めてみせながら、「今夜のことは俺に一任してくれて構わないぜ」と自信たっぷり言ってのけたものだった。
 だがその瞳にきらりと宿った光は真剣で、今夜のことは二人の間でよく話し合われていたことなのだと察せられた。何よりロザリアには、アンジェリークの気持ちについても手に取るようによくわかる。せめてこのアルカディアにいる間くらい、堅苦しいことを言ったりせずに気持ち良く二人きりにしてやりたいと思えた。

「──わたくしがお傍についてサポートするよりも、陛下にはその方がよろしいでしょうから。ですから慣例には敢えて目をつぶって、お役目を譲って差し上げましたのよ。…でもオスカーったら、最後に一言余計なんですわ。『この俺の情熱で夜空を真っ赤に染めてやるから、補佐官殿は安心して見物に回ってくれよ』ですものね!」
 そう言った時のオスカーのいかにも得々と満足げな笑みと、その傍らで嬉しそうに笑み崩れるアンジェリークのどこかはしゃいだ様子を思い出し、ロザリアは軽く頭を振って吐息をついた。そんな彼女の表情に、ルヴァが思わずというように笑いをこぼした。
「オスカーらしいと言えば、大層彼らしい言いようですねえ」
「それはそうなのですけれど。でもあんまり自信満々で得意そうだと、何だか癪に障るじゃありませんか」
 ロザリアもつられて笑いながら、ちょっとだけ文句を言ってみる。ルヴァがいつもの柔らかい笑顔のまま、うんうんと頷いてそのまま受け止めてくれるのが心地よかった。
「そうですねー、まあそういうオスカーだからこそ、陛下も安心して甘えられるというものなのでしょうが──おや、どうやら始まったようですよ…?」
 そう言いながら空を見上げるルヴァの視線を追うようにして、ロザリアもふっと笑いを納めて夜空に目を向けた。


 アルカディアの夜空をふわりと包み込むように、淡い色合いの光の幕が柔らかく揺れながら広がってゆく。
 最初は仄かに白っぽい揺らめきと見えたそれは、見守るうちに淡いピンクから柔らかな緑色へと移り変わり、やがて水色がかった緑白色の光を帯びたかと思うと、またうねるようにして華やかなピンク色にその色合いを変えていった。
 次々に生まれては重なり揺れて広がってゆくその光の競演は、例えようのない美しさで見る者の胸を打つ。身内に広がる大いなる感動の波に取り込まれながら、それも当然のことだわとロザリアは微かに思った。文字通り、それはアルカディア全体を包み込み愛おしむ女王の想いそのものの具現なのだから。
 ──限られた時間の中で封印を解くべく力を尽くすもう一人の女王に、守護聖をはじめ彼女を支える者達に、そしてまたこの災難に巻き込まれてしまった民たちの上に、等しく降り注ぐ励ましと労りの光。
 きっとこの慈愛の波は、サクリアの恵みそれ自体を感じ取ることはできない者の心の奥底にも深く染み通り、暖かく力づけてくれるものとなるだろう。このところ、頻繁に続く霊震に不安と焦燥の色を濃くしつつあった民の為には、何よりの慰めであり導きの光であると思われた。

 彼女の隣で、ルヴァがほうっと深い吐息をつくのが耳に入った。いかにも感に堪えないという様子で言葉もなく空を見上げる彼の傍らで、ロザリアもまた黙って揺れる光の幕を見つめていた。
 ややあって、ルヴァがもう一度吐息をついてから小さく笑った。
「これは…言葉を失うというのは、こういうことを言うのでしょうね…」
「ええ、本当に」
 そっとそう答えてから、ロザリアはルヴァの方を見て、ふふっと少しいたずらっぽい笑みをこぼした。
「今夜は、『そもそもオーロラの成り立ちというものは…』というようなお話はなさらないのね?」
「いやあ…」
 ルヴァが薄く赤面し、照れたような困ったような顔でロザリアを見た。
「ええと、そんなに私はそういう堅苦しい話ばかりをしていたでしょうかねー?」
「そうですわね──」
 彼女はくすくす笑って、肩のショールを引き寄せた。
「まだわたくしが女王候補であった頃、ご一緒に流れ星を眺めたことがありましたけれど。美しい夜空の中を次々に流れる星を見ながら、あなたは流星物質の衝突励起とやらについて語って下さったのでしたわ」
 当時から彼に仄かな想いを寄せてはいたものの、ルヴァと過ごす一時というのは、大抵部屋で彼女が入れたお茶を飲みながら、ほのぼのと他愛無い会話を交わすだけ。デートらしいデートはしたこともなく、それでもいつかそのうちと少女らしい夢を抱いていた中で、あの夜は珍しくロマンチックなシチュエーションだったというのに。そんな淡い失望の一方で、それはいかにも彼らしいと微笑ましくも思えてしまい、残念なようでありながら嬉しいような可笑しいような、何とも複雑な心境になったものだった。
 そんな気持ちを思い出し、つい抑えきれずにからかい口調になったロザリアに、ルヴァはいかにも照れくさそうに「いやー参りましたねー」と呟いて、それからちょっと眩しげに彼女の顔を見た。
「そんなこともありましたねえ。──ですがそんな昔のことを、よく覚えていて下さいましたね?」
 ルヴァのその口調に含まれた何かがロザリアの心の琴線に触れ、トクンと鼓動が高鳴った。彼女は小さく微笑み、忘れたことなんてありませんわと心の中でだけ呟いて、口に出しては「ええ、もちろん」とだけ答えた。
 ルヴァがうっすらと笑み、目を上げて絶えず揺らめき変化する光のカーテンを見やりながら、遠い日を懐かしむように言った。
「そう──当時はちょうどゼフェルの教育係を引き受けていたせいもあったのでしょうが、あの頃の私ときたら、あなたや陛下に対しても、口を開けば何やら講義やお説教めいたものばかりになっていましたねぇ。なんと面白みのない朴念仁であったことかと、自分でも思いますよ。…ああ、今も大して変わってはいないと、ゼフェルあたりには言い切られてしまいそうですがね?」
 ルヴァはくすりと笑うと一旦ふっと言葉を切って、それから限りなく優しいまなざしでロザリアを見た。

「けれど──ロザリア。今このとき、あなたと共にあって、美しいものをただ美しいと感じられること──そのことを、私はとても嬉しく思います」

 それは全くの不意打ちだった。一気に高まる胸の鼓動に、ロザリアは常にもあらず動揺し、頬に朱をのぼらせた。
 一方ルヴァは、常と変わらず穏やかに、暖かな目で彼女を見守っている。ロザリアは、ショールを軽く整えながら何とか落ち着きを繕うと、まだ熱い頬を意識しつつ、彼を見上げてややぎこちなく微笑んだ。
「わたくしも…嬉しく思いますわ」
 それだけ言うのが精いっぱいだったが、それを聞いたルヴァが本当に嬉しそうな笑顔になったので、すとんと気持ちが落ち着いた。ロザリアは恥ずかしげにもう一度微笑むと、半歩だけルヴァの方に寄り添うようにしながら、オーロラの空を振り仰いだ。


 いつしか夜空を満たす光は、天頂の一点から降り注ぐようにして広がっていた。その中心は深紅に染められ、赤い光の網が天の一角から投げ放たれたようにも見える。そこには、先ほどまでの柔らかな光のカーテンとはまた違う、力強い輝きが宿っていた。
「…これは、オスカーですわね。陛下のお力と見事なまでに溶け合って…」
「ああ、そうですねー。強さのサクリアがはっきり感じられますよ」
 ルヴァがそう言って大きく頷いた。
 光の波となって広がる女王サクリアに炎の力が寄り添い溶け込み、心強くあれという声なき声となってアルカディアの全土に降り注ぐ。
 オスカーの宣言通り夜空を赤く染めるその輝きを見上げながら、ルヴァがしみじみと呟いた。
「陛下はお幸せそうですね」
 今、夜空を見上げているであろう守護聖の全てが、同じ思いでいることは疑いない。ロザリアもまた、暖かな笑みを唇に乗せて頷いた。
「──ええ。陛下のお力の、なんて伸び伸びと豊かなこと。何も心配することはなかったようですわね」
 夜空を光で満たし包み込むこのサクリアの広がりを見ていると、アンジェリークが今どれほど生き生きと幸せそうな顔でオーロラを生み出し支えているかが目に見えるようだ。またその傍らに寄り添いながら彼女を支える炎の守護聖が、どれほど誇らしげにその面を輝かせているのかも。

 そんな思いに微笑みを浮かべてオーロラを見つめ続けるロザリアの傍で、ルヴァが静かに口を開いた。
「……このアルカディアでは、オーロラは天使の祝福と言われているのだそうですね。そしてまた、オーロラを共に見た者同士は強い絆で結ばれるのだとも」
 その声音に引き寄せられるように彼の方を見ると、ルヴァの真摯なまなざしがロザリアの瞳を捉えた。
「その古い言い伝えも、他ならない今夜のこのオーロラのもとでは真実となるのではないかと…本当にそういう力を宿していても不思議はないと、そんな気がします。──いえ、そうなって欲しいと、今心からそう思っていますよ…ロザリア」
 やや強い口調でそう言ってから、ルヴァは照れたように目を伏せて、「いやー、らしくもないことを言ってしまいましたかー」などと口の中でもごもご呟いた。
 ほんのり頬を染めながら、そんなルヴァを見つめて、ロザリアは自分の心がゆっくりと暖かいもので満たされてゆくのを感じた。
「本当に──そうかも知れませんわ」
 そっと小さくそう答えて、ロザリアははにかんだようにルヴァを見た。
 女王候補の頃も、こうして補佐官となってからも、いつも変わらずにこやかに、黙って彼女に手を貸し支え続けてくれたルヴァ。
 ルヴァは決して急がない。強い想いをはっきり顕してしまうことにも、どちらかと言うと消極的だ。でもたゆまず揺るがず、ゆっくり穏やかでありながら、とても確かに歩みを進めてゆく人だ。
 彼のそんなところがとても好ましいと思い、ロザリアはふわりと微笑んだ。


 つい先ほどまであれほど夜空を明るく染め上げていたオーロラも、だんだんと静かに揺らめく光の残滓という風情になってきた。
 祭りの夜は終わろうとしているのだ。だがこのまま終わりにしてしまうのは、いかにも惜しいと感じられた。
「…少し冷えてきましたわね」
 ロザリアはそう言って、にこりとルヴァに笑いかけた。
「もしよろしければ、わたくしの居室の方で暖かいお茶でもご一緒にいかが──?」
 柔らかくのどに絡んだようなその誘いに、ルヴァが軽く目を瞬かせた。
 それから彼は、少し照れくさげに、でも大層嬉しそうに目を細めて頷いた。
「ええ。喜んで」

 ちょっとだけためらいがちにルヴァが差し出す腕に優雅に手を預け、ロザリアは宮殿の方へと歩き出した。
 この先もきっと、自分達はゆっくりほんの少しずつ、その距離を縮めてゆくことになるのだろう。──あくまで自分達のペースで、本当にゆっくりと。
 でも私達はそれでいいのだわと、ロザリアはほんのり微笑んだ。

 寄り添い合うというには少し離れて、儀礼的というよりは近々と。そんな風に連れ立って宮殿の建物へと入ってゆく彼等の背後の星空で、仄かに赤いオーロラが、薄衣のように揺らめいていた。


あとがき



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