You're still the one


◇ You're still the one ◇



 朝の光にふと目覚めた時、夫はまだ深い眠りのうちにいるようだった。
 アンジェリークが半身を起こしても、目覚める気配はない。
 珍しいこのシチュエーションにちょっと微笑んで、彼女は夫の寝顔をそっと覗き込んだ。

 ──疲れた顔をしている。

 通常の任務の他に、召喚されたばかりの後任との引き継ぎに忙殺されている、ということもあるのだろうが、やはりサクリアの衰えというものが彼の心に大きく影を落としているのだと、彼女はぼんやりと思った。

 守護聖として聖地で過ごした14年の歳月を、彼は今終えようとしていた。
 それは、いつか必ず来るものとわかっていたことではあるが、いざサクリアが衰え始めてみると、思っていたよりも精神的な負担が大きいものであるらしい。
 理屈ではわかっているし、既に何度も守護聖の交代というものを目にしてきてもいるのだが、やはり当人にしか感じ得ない喪失感と当惑というものは、いかんともしがたいもののようだった。
 もちろん、外ではそんな不安やおぼつかなさを他人に気取られるような彼ではない。彼はいつでも、真実『強さ』を司るにふさわしい男であったし、またそれ以上に、彼自身があくまでスマートな伊達者としてふるまうのを好んでもいたから。
 ただ、私邸にひきあげてからの素顔の彼を知る妻だけには、半ば冗談めかした控えめな表現ではあったが、力を失うことへの恐れや虚無感について時折口にしていた。

 彼女自身には、サクリアの消失という感覚を本当に理解することはできない。
 無論、彼女もかつては女王候補であったから、未分化の女王サクリアを身の内に宿してはいる。そして近い将来、夫に伴って聖地から下がる際には、女王の力でそれを昇華させることにより、常人に戻ることとなってもいる。
 しかし、真に発現したサクリアを長年に渡って実際に使い続け、そして使い切るというのは、全く別のことなのだと、補佐官として女王に仕える日々のなかで彼女なりの理解に達してもいた。
 けれど、実感としてその辛さを共有することはできなくとも、彼を支えられる存在でありたいと、心底そう思う。
(私、あなたをちゃんと支えてあげられている?)
 彼女は慈愛に満ちた瞳で、眠る夫を見つめ続けた。

 出会って、10年。結婚してからも、もう8年になる。
 10年なんて、あっという間だった。
(…こうして見ると、やっぱりちょっと年をとったかしら)
 強靭な精神も、いつも鍛練を欠かさない引き締まった体躯も、昔と少しも変わらない。
 きびきびとしたふるまいも自信に満ちあふれた果断な表情も、それから彼女に向けられる、甘く優しい微笑みも。
 それでも、こうしてじっくりと眺めてみると、頬はややそげて厳しさを増し、昔よりも精悍な印象を強く感じるようになっていた。
 最年長の守護聖となってからは、それなりに心労も増えたのだろう。眉間にうっすらと刻まれた皺は、何となくなつかしい前の光の守護聖を思い起こさせ、彼女は思わず口元をほころばせた。
 彼はいつもいかにも雄々しい青年神のようだったから、今まであまり考えたことはなかったけれども、この人は確かに青年期を終えて壮年にさしかかっているのだと、アンジェリークはあらためて思った。

 聖地に召喚されたのが、18の年だったと聞く。少年期の終りから青年期にかけての14年を、彼は宇宙の為に捧げてきたのだ。そして、そのうちの10年を、自分は共に過ごしてきたんだな、と、彼女は思った。
(あなたにとって、この14年はどんな年月だった──? 私と暮らすようになってからの、8年は?)
 ふっと、いとおしさがつきあげた。あまりの愛しさに胸がしめつけられて、アンジェリークは微かに涙ぐみすらした。
(愛しているわ、オスカー…8年、いいえ、10年経っても変わらずに。そして、これからも、ずっと──)
 片恋に心を震わせていた頃のみずみずしい想いや、結ばれた当初のような激しい情熱は、もう思い出の中にしかないのかもしれない。だが、伴侶として心を重ね生きてきた日々の中で静かに変容しながらも、常に確かな愛しさがそこにはあった。
 年月と共により深く、より強く、胸の中の一番大切な場所に。魂それ自体に刻印されたかのように。この豊かでゆったりとした暖かな愛情こそは、オスカーと彼女とが共に育んできた、自分達にとって最も大切な真実だった。
 身を焦がすような激しい炎ではない。でも、それでいいのだと、彼女は思う。表面上は静かに、しかし永く熱くひそやかに燃え続けるであろう確かなこの想いをずっといだいていきたいと、切実にそう思った。
 ──そう、これから只人としての歳月を重ね、二人が共に老いていってもなお、消えぬ燠火のようにずっと胸の奥に抱いていきたい、と。
(オスカー、私の、愛する人……)
 アンジェリークは、夫の額にかかった髪に、そっと指先で触れた。

「ん……」
 オスカーが軽く身じろぎをして、それからふっと目を開いた。氷青の瞳が、自分を覗き込む妻の顔を捉えてやわらぐ。アンジェリークは、彼の赤い髪をほっそりした指先で撫でながら柔らかく微笑んだ。
「ごめんなさい、起こしてしまった?」
「……遠い日の夢を見ていた」
 オスカーは少し掠れた声でつぶやいて微笑み、妻の体を引き寄せて抱きしめると、目を閉じて小さく吐息をついた。
 彼はそれ以上何も言おうとはしなかったし、アンジェリークもことさらに尋ねはしない。かわりに、彼の体に腕を回して無言でぎゅっと抱きしめた。オスカーの大きな手が、そっといとおしむように髪に触れてくる。アンジェリークは、彼の肩に頬を押し付けたまま囁いた。
「私はずっと、ここにいるわ。…あなたのそばに、いつでも、いつまでも。──どこまでも、どこへでも、あなたについて行くわ……」
 瞬間、体に回された彼の腕にぐっと力がこもった。黙ったまま額に押しあてられた唇が、ややあってわずかに動き、微かな囁きをこぼした。
「────ありがとう」
「愛してるわ、オスカー」
 目の前の、陽焼けした首筋に唇を触れさせてつぶやくと、オスカーの頬が髪にすり寄せられ、しっかりと抱きしめられた。アンジェリークは幸福な吐息と共に目を閉じた。
 大丈夫、ずっとずっと支え合っていける。頼るばかりじゃなく、支えられるだけじゃなく。きちんとこの人を守り、支え、癒してあげられる。
 ──それが、無性に嬉しかった。
「君がいてくれてよかった…アンジェリーク」
 低いつぶやきとともに彼女を求めて降りてきた唇が、しっとりと重ねられた。

 今日は昨日より、明日は今日より、愛を深めていけるといい。
 愛しい、いとおしい、大切な人。かけがえのない、唯一のひと。
 この長い長い、天上人としての時の終りに、かつて故郷と呼んだ地にさえも、会いたい者とていはしない。確かに生まれ育った地でありながら、全く見知らぬ、変わり果てた場所。もしも一人で降り立つならば、それはどれほど冷たく淋しい大地だろう。どれほど孤独な、生だろう。
 ただ一人──たった一人の愛しい人と共に行けるというだけで、その生は何と劇的にその色合いを変えることか。
 本当に、出会えてよかった。心から、そう思う。
(私の知らない、あなたの22年。あなたの知らない、私の17年。──それから、二人で紡いだ、この10年…。)
 これから何年の時を、共に紡いでいくのだろうか。出会うまでの年月も、出会ってからこれまでの日々もはるかに凌ぎ、共に手をとり寄り添って、ゆっくり、しっかり、歩んで行きたい。

「一緒に、歩いていきましょうね、オスカー…?」
「ああ──ずっと一緒に、な……」



 二人が共にある、幸福────。


あとがき

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