◇ Irresistible You 1 ◇
実際に、自分がなってみて。
女王補佐官って、ほんとはすごく忙しかったのねと、つくづくそう思うようになった。
先任のディア様はいつもゆったりと落ち着いて、柔らかな微笑みを絶やしたことがなかったのに。今の自分とはなんていう違いだろう。
それはもちろん、補佐官になったばかりで慣れないのだから多少のことは仕方ないと、誰もが笑ってねぎらってくれてはいるのだけれど。
それでも、と、アンジェリークはいつの間にかきゅーっと寄っていた眉の間を指先で軽くこすりながら、小さくため息をついた。
毎日、書類の束を抱えてばたばたと駆け回っているうちに、いつの間にか一日が終わってしまう。そんな感じがいつまでも抜けなくて、本当にいつかはディア様みたいになれるのかしらと思うと、なんだかちょっと気が遠くなる。
昨日も廊下を小走りに駆けているところをジュリアスに捕まって、補佐官たるにふさわしい立ち居振る舞いを心掛けるようにと、ため息まじりの軽い叱責を受けてしまった。
…アンジェリークだって、一応心掛けてはいるのだが。
だがどうしても、その日やるべきことを頭の中であげつらねていくうちに、何だかごちゃごちゃになってしまい、気ばかり逸ってゆったり歩いてなんかいられない気分になってしまうのだ。
(……私って要領悪いのかなあ〜)
そう思いかけ、そんな自分にちょっと顔をしかめて、アンジェリークは弱気な気分を振り払った。それからよしっと気合いを入れ直し、彼女は書類の山の方に挑戦的な目を向けた。
(大丈夫、ちゃんとできるわ。ううん、やらなくちゃ。──えっと、まずは今日陛下に決裁してもらわなきゃならない書類をまとめて、と…)
ぶつぶつ口の中でつぶやきながら、書類の束を仕分けする。一応秘書官達がまとめてくれているとはいえ、ロザリアのもとへ持っていく前には一通り目を通して、彼女自身が理解しておく必要があった。
いつまでも新任だからという言い訳は通用しない。周囲の優しさは本当にとても嬉しかったけれど、それに甘えてしまうのは嫌だった。
一日でも早く一人前になり、きちんと認めてもらいたいという強い気持ちで、アンジェリークは書類の内容に目を通し始めた。
「失礼いたします、ご伝言が届いております」
オリヴィエに叱られそうなくらいに再びきゅきゅーっと眉根を寄せて書類に集中していたところへ、秘書官の女性が柔らかく声をかけてきた。
「あ、はい。ありがとう」
書類から顔をあげ、差し出された封書をにこりと笑いながら受け取ったアンジェリークは、その封筒に目を落とした途端にぽっと薄く頬を染めた。
オスカーからだ。
表書きには、流れるような、それでいてしっかりした書体で「アンジェリーク」とだけしたためてある。封筒も、炎の守護聖の正式なものではなく、彼が私信に使うものだ。
仕事の上での公的な連絡だったら、必ず正規のものの上に「女王補佐官殿」と記されている筈だし、そういったものはまず担当秘書官が目を通して内容を彼女に伝えることになっている。そうでないからには、オスカーからアンジェリークへの私的なメッセージということだ。
これまでにも時たま、仕事中に彼からの短い伝言を受け取ることはあった。
時にはディナーの誘いだったり、休日のデートの申し込みだったりということもあったが、大抵はあまり頑張り過ぎるなよと彼女をいたわる言葉であり、時にはもっと直接に「いつも君を想っている」というメッセージだったりもした。
そうやって、きりきり根を詰めてしまいがちな彼女の気持ちをやんわりほぐしてくれるオスカーの心遣いが、とても嬉しい。その一方で、ついついぼうっと彼のことを思って幸せな夢想に陥りそうになる自分を引き止めるのには、大変な努力を必要とした。
今日は特にやるべきことが山と積まれているのだ。すぐにも目を通したい気持ちは山々だったが、封を切ってしまったら、しばらく仕事が手につかなくなるのは目に見えている。
──夕方になって、今日の執務が一段落してからゆっくり読もう。それはそれで、ひとつの励みにはなるし。
アンジェリークはそっと表書きのオスカーの筆跡の上を指でなぞり、小さな甘いため息と共にそれをデスクの引き出しの中へとしまいこんだ。
◇◇◇
昼食をはさんでロザリアに今日の分の決裁を済ませてもらい、彼女に息抜きをしてもらうためにちょっとお茶につきあってから引き上げてくると、既に午後も半ばを過ぎていた。
新たに回ってきていた書類を担当すべき守護聖に割り振りながら、申し送り事項を添えて各人の執務室へ届けさせるように手配し、それから明日の定例会議のためにまとめてもらっていた資料に目を通す。そうこうするうちに、あっという間に夕刻となった。
資料の束から顔をあげて、紅く染まり始めた外の景色を眺めやり、アンジェリークはほうっと長い息をついた。
今日はまずまず仕事も順調に進んだし、とりたてて失敗というほどのこともしていない──というか、目くじらを立てそうな人に見咎められてはいない。まあまあうまくいった一日だったと思いながら、彼女は資料を机の上にぽんと置いて、うーんと一つ伸びをした。
「お疲れ様です、今日はどうやら定時で帰れそうですね」
秘書官の一人が、笑ってお茶を差し出してくれる。
「ありがとう。そうね、今日はそんなに急ぎのものはもうなかったと思うし──」
嬉しそうに答えながら、アンジェリークは「未決」のトレイを覗きこみ、何の気なしに書類の束をパラパラとめくった。
その手が、ぴたりと止まる。
一瞬の沈黙の後に、アンジェリークはクリップでひとまとめにされた資料を未決書類の中から慌てて引き出した。
……なんで、これがここにあるの。
来週の視察の資料として、ランディに渡してある筈の書類だった。確かに昨日のうちに、関連書類と一緒にファイルに綴じて、彼の執務室に届けてもらっていた筈だ。
それがどうして、ここにあるんだろう。確かに書類を揃えて綴じたという記憶があるのに。
なんとなく嫌な予感に、胸がどきどきする。アンジェリークは中空を見つめて昨日の記憶を探った。
昨日はいつにも増して忙しく、秘書官達の出入りもバタバタとせわしなかった。あの時も確か、誰かの執務室から戻ってきたばかりの秘書官をつかまえて、ランディ宛のファイルを託した記憶がある。その後すぐにロザリアの所へ行って──そうだ、ロザリアから緊急に呼び出しがあったんだった。女官が呼びに来たときに、ちょうどこの書類を揃えていて……。それで、どうしたんだったろう。これだけ綴じ忘れたんだろうか。いや、確かに『これとこれとこれ』、と、三種類の資料をまとめて揃え、綴じた筈だ。なんとなくだけど、手が覚えているもの。
…だったら、間違って別の書類を綴じてしまったんだろうか。あの時机の上にあったのは──。
「────!!」
アンジェリークは息をのんで、弾かれたように立ち上がった。
あれ! あの書類! あれどうしたろう、あの直前に、至急扱いで来ていた書類。あれは昨日のうちに処理してなきゃならなかったものの筈だ。緑の守護聖にすぐに現地に飛んでもらわなきゃならないほどの、バランス異常。あれ処理してない! 忘れていた──!?
「アンジェリーク様?」
真っ青になったアンジェリークを不審に思って、秘書官が気づかわしげに尋ねてくる。その声が妙に遠い気がした。足の震えを抑えられない。
「どうしよう、どうしよう、マルセルに視察に出てもらわなきゃならなかったのに、忘れてたの。書類、回ってきてたのに、それ間違えて別のファイルに入れて、ランディに渡しちゃったみたいなの。どうしよう、丸一日無駄にしちゃった。至急だったのに、うっかりしてたじゃ済まされないわ」
聖地での一日のロスが、現地ではどれほどの影響を及ぼしていたことか。それによって失われただろうものの大きさを思って、アンジェリークは目の前がすうっと暗くなるのを感じた。
「マルセル様に──? 確かマルセル様は今日の昼から明日にかけて、辺境の星の祭礼に主賓として招かれていらしたのでは」
秘書官の声も緊張を孕んだ。
「緑の守護聖様関連で至急扱いの書類が回ってきたことは、私共では把握しておりませんでしたが?」
「た、たまたま誰もいなかったの。皆出払ってたときだったの。私が直接受け取って、それで、その時ちょうど陛下からの呼び出しも重なって、それで……」
声が震えて、後は言葉にならなかった。辺境の祭礼。呼び戻すには時間がかかる。呼び戻して、それから事の経緯と状況を説明して、問題の惑星へ飛んでもらって──視察慣れしていないマルセルに、この事態の収拾ができるだろうか。手後れにならないうちに。
いや、もしかしたらもう手後れなのかもしれないけれど。それでもこうしてガタガタ震えながら時間を無駄にしているうちにも、どんどん荒廃は進んでいくのだ。なんとか打てる手だけでも打たなくては。
それも、今すぐに。
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