ROSE


◇  ROSE  ◇




 午後の聖殿のしっとり落ち着いた空気の中、優雅に歩を進めていたロザリアは、背後の回廊の方からぱたぱたぱたっと軽い足音が追いかけてくるのに気付いて、口元に小さな苦笑を浮かべた。

(あの子ったら)

 前に注意してやって以来、遠くから大声で呼ぶことは控えるようになったようだが、廊下を走る癖の方はなかなか直らないものらしい。ロザリアは、しょうがないわねというようにくすっと笑うと、歩みを留めて振り返った。
「ロザリア!」
 駆け寄ってくるアンジェリークの面が、ぱあっと明るく照り映える。相変わらず自分の感情をそのままストレートに表してくる彼女に、ロザリアは優雅な微笑みを返した。
 いかにもあけっぴろげな彼女の感情表現に、最初のうちこそ戸惑いもし、なんて不躾なとも感じたものだったが、今ではその飾り気のなさこそがアンジェリークの長所であり魅力でもあるのだとわかっている。自分には到底できないことだと思うが、逆にだからこそロザリアは、彼女の無邪気なまでのその素直さを好ましく思っていた。
 アンジェリークはロザリアの傍までくると、軽く息を弾ませ瞳を嬉しそうにきらめかせながら、満面の笑みを浮かべた。
「よかった、追いつけて。ね、今帰り? 一緒に帰ろ?」
「わたくしは構わなくてよ。でもあなたこそいいの? 今日もいつものように寮まで送って行きたいとおっしゃる方がいるのではなくって?」
 揶揄混じりに問い返されて、アンジェリークの顔がぱっと朱に染まった。
「や、やあねロザリア。なんのこと?」
「さあ、なんのことかしら」
 ロザリアはアンジェリークをからかう誘惑に負けて、すまし顔で続けた。
「このところいつもあなたを送ってきている殿方は、見過ごす方が難しいくらい印象的な方だと思うのだけれど。それとも、昨日も一昨日もその前も、あれはわたくしの見間違いだったのかしら? 」
「ロザリア〜」
 真っ赤になりながら困ったように上目遣いで見上げてくるアンジェリークの表情があまりに可愛らしくて、ロザリアは思わず笑った。
「白状なさい。オスカー様がお忙しいとかで一緒に帰れないから、わたくしを追いかけて来たんでしょ」
「……今日は聖地にご用ですって」
 ちょっと口ごもりながら素直に認め、それからアンジェリークは大層力の入った真剣な面持ちで続けた。
「でもっ、ロザリアと帰りたかったのはほんとにほんとよ!」
「わかってるわ」
 ロザリアは鷹揚に笑ってから、ふと面をあらためてアンジェリークを見やった。

 この子は、どこまで本気なのだろう。
 試験の中盤頃から彼女とオスカーが急速に親しさの度を増してきたことは、誰の目にも明らかだ。もしも彼女が本気でオスカーに恋し、オスカーの方にも彼女を受け入れる意志があるのだとしたら。──そうしたら、アンジェリークが女王候補を降りるようなことにもなるのだろうか。
 今のところ、彼女はそんな気配も見せずに一心に育成を続けているようではあるけれど。
 それでも…もしかしたら。

 ロザリアは軽く頭をふって、胸の中にわだかまるそんな思いを断ち切った。
 アンジェリークの方はと言えば、そんなロザリアの物思いに気付く様子もなく、いつものように楽しげに喋り続けていた。
「──ね? ロザリア?」
「え…ごめんなさい、何ですって?」
「聞いてなかったの? 珍しい」
 くすくす笑われてほのかに赤面したロザリアに、アンジェリークはにこにこと繰り返した。
「あのね、今日私の部屋に泊まってかない? 久々に夜中おしゃべりしようよ」
「いいけど、明日は審査の日でしょ」
 夜中なんて言ってはいても、アンジェリークが起きていられるのは一時間かそこらだとわかってはいたが、一方で彼女の寝起きの悪さもよく知っている。だからやんわりそう指摘してやったのだが、アンジェリークはそれを聞くなり、なんとも嬉しげにうふふと笑った。
「だからよ。審査の日の朝は、いつもロザリアが迎えに来てくれるじゃない。一緒に起きて一緒に身支度したら、面倒がなくていいでしょ?」
「あきれた」
 得々と言ってのけるアンジェリークに思わず吹き出して、ロザリアは降参した。
「いいわ。でも明日の朝は容赦なく叩き起こしますからね、覚悟しておきなさいな」
「うんっ」
 勢いよく頷く彼女がいかにも嬉しそうで、ロザリアは、敵わないわねと思いながら小さく苦笑をもらした。

◇◇◇

 いつものように寮の食堂で夕食を共にした後、ロザリアは一旦自室に引き上げて泊まり仕度を整えてから、アンジェリークの部屋のドアをノックした。
「どうぞ、入って!」
 弾む声と共に中へと導き入れられて、最初に目に入ったのは、テーブルの上に生けられた優美な白い薔薇だった。
「──オスカー様ね?」
 そちらへ視線を向けて問いかけると、アンジェリークはぽっと頬を染めて頷いた。
「うん。最近、よく頂くの」
「そう」
 頷き返しながらロザリアは、以前のオスカーはアンジェリークにもっと可愛らしい花を贈っていたと思い出していた。色もいかにも少女らしい色合いが多く、さすがに贈る相手に合わせることを知っている人らしいと、何となく感心したことがある。
 可憐なピンクのスイートピーを贈っていた頃、それが彼のアンジェリークのイメージであったのだとしたら、今のオスカーの目に映るアンジェリークは、この清楚でありながら匂いやかな白薔薇であるのだろうか。なんだか、型通りに情熱の赤薔薇を贈っているよりも、よほど彼の本気をかいま見た思いだった。
 ロザリアは、なんとなく他人の告白場面に立ち会ってしまったような気恥ずかしさを覚えて、ほんの少しだけ頬を染めた。
 何気なくアンジェリークを見やると、彼女も薔薇の花を見つめながら、どこか夢見るような限りなく優しい笑みを浮かべていた。そんな彼女を見るのは初めてで、ロザリアははっと胸をつかれた思いがした。
 と、アンジェリークはロザリアに視線を戻してちょっと恥ずかしそうに笑い、それからにこやかに彼女に椅子をすすめた。
「どうぞ、座って。オリヴィエ様に頂いたおいしいお茶があるの」


 二人でお茶を飲みながら、育成のことや明日の審査についてちょっと真面目な話をした。それから、それぞれが守護聖達と交わした他愛ない会話を披露しあい、笑い合った。一度お茶をおかわりし、そうしてとりとめないお喋りを続ける。ようやく寝間着に着替えて二人してベッドへ潜り込んだ頃には、既にいつもの就寝時間をだいぶ回っていた。

 近しい友の気安さに大層色々なことを喋ったようではあったけれども、それでもこうしてお互いパジャマとネグリジェという最も気取りのない格好でベッドに寝転がってみて初めて、本当に忌憚のない問いかけができることもある。
 ロザリアは、嬉しそうに枕に抱きつくようにしながらごろんと腹這いになっているアンジェリークの方を見て、笑い混じりにずばりと尋ねた。
「──それで、あなたはオスカー様のどこが好きなの?」
「え………」
 虚を突かれたように目を見開いてロザリアを見返したアンジェリークは、笑いを含みながらもまっすぐ見つめて来るロザリアに、頬を染めつつ神妙な顔つきで答えを探した。
「ええとええと、ええとね…」
「なあに、はっきりおっしゃい」
「う〜ん……全部、かなあ」
 言ってしまってから恥ずかしくなったように、アンジェリークはばふっと枕に顔を埋めて小さくじたばたした。
「なによ、それじゃ答えになってないわ」
 ロザリアは笑いながらも追及の手をゆるめようとしない。アンジェリークはちらっと半分だけ枕から目を上げて、ロザリアの方を見た。
「だって…ほんとだもん」
 もごもごと呟き、それからアンジェリークは枕を両腕に抱え込んだままベッドの上に座り込んだ。
「一つずつ挙げていってもいいけど、キリないわよ? …人が聞いても、楽しくないと思うなあ」
 そう言いながらも、彼女はやや伏目がちにぽつぽつ列挙し始めた。

「うっとりしちゃうような声とか、大きくてあったかい手とか、いつも優しいんだけどすごく意志の強い瞳とか、いつでもしっかりそこに立っていて、とっても頼りになるところとか、お仕事してらっしゃるときの厳しい横顔もとってもステキだし、一緒にいる時にはほんとに優しくて、いつでもすごく気づかってくれるし、前はからかわれるのがイヤだったけど、今はそういう時のいたずらっぽくキラキラしてる目もちょっと子供みたいで可愛いかもとか──」
「……もういいわ…」
 聞いた自分が悪かったというようにこめかみに手をやるロザリアを見やって、アンジェリークはなんだか奮い立ってしまったようだった。
「あのねあのね、オスカー様って厳しいだけでも優しいだけでもないのね。お仕事の時はすごく真面目で、お休みの時にはとっても優しく包んでくれて、ロマンチストでリアリストで、すごく大人なんだけどどこか子供みたいなところもあって、そういういろんな面がどれも好き。どんなオスカー様もみんな好きなの。だから、全部としか言えないの」
 言っているうちに、アンジェリークの表情はどんどん真剣なものになってゆく。ロザリアはいつしか圧倒されていた。
「オスカー様は、ただ自信満々に強いだけの人じゃあないと思うの。ご自分の弱い面もちゃんと知っていて、でも人には弱味は見せない方なんだって、そう思うわ。私、そんなオスカー様の傍にいたい。いさせて欲しいって思ってるの」
 勢いでそこまで言ってしまってから、アンジェリークはぱっと赤くなり、「やだ…」と小さく呟いて両手で熱い頬を押さえた。
「アンジェリーク」
 ロザリアは身を起こしてアンジェリークの前にきちんと座り、その手をとってぎゅっと握った。
「真剣に、オスカー様が好きなのね」
 ロザリアの声音も、真剣なものになっていた。
「あなたが本当にオスカー様を好きで、オスカー様もちゃんと真剣にあなたとのことを考えているのなら……あなたには、女王候補を降りるという選択もあるのよ」
 その一言を口にするのは少しだけ辛かったけれど、自分が言ってやらなくてはならないという気持ちがロザリアにはあった。

 アンジェリークは、今やライバルとして申し分のない力を示している。育成状況も常に抜きつ抜かれつという感じだし、守護聖達の評価も高い。ロザリアとて引けをとるつもりはないが、明日の審査でもアンジェリークの方が上回るかも知れないと客観的に評価を下すだけの冷静さは持っていた。
 そんな彼女と、最後まできちんと競い合い、高め合って、女王の座を目指したい。その気持ちは今や何よりも強いものとなっている。
 敵わないのかも知れないと、どこかで感じているからこそ、もしも途中棄権で勝利を譲られる形になったらプライドは傷つけられるだろう。17年の人生を通じて真剣に女王を目指してきたロザリアにしてみれば、その女王位をあっさり恋とひきかえられることに傷つかないと言ったら、それは恐らく嘘になる。
 だが、それでも。
 そんな自分の心のありようがアンジェリークにも伝わって、万が一にもそのことが彼女を留めることになってはならないと、そう思う気持ちも本当だった。

「もし…もしも、女王を目指すことよりも大切なことがあると、本当にそう思ったら。わたくしに気兼ねをすることはないわ。それだけはわかっておいてちょうだい」
 ほのかに苦い言葉ではあったけれども、きちんと冷静に告げることができたことにほっとした。
 アンジェリークは真剣にロザリアの言葉を受け止め、それからまつげを伏せて小さく微笑んだ。
「ロザリア。…ありがとう」
 それからアンジェリークはどこか大人びた瞳でロザリアを見つめ、ゆっくりと言った。
「でもね、私、途中で候補を降りたりはしないわ。どんなにオスカー様が好きでも、それはできない。オスカー様も…わかっているわ」
 アンジェリークは一旦言葉を切って、ロザリアがどきりとするような笑みを浮かべた。
「だって、しょうがないじゃない。…声を、聞いちゃったんだもの。聞こえてしまうんだもの。ロザリアになら──わかる、でしょう?」

 ああ──そうなのね。あなたも、やはり聞いているのね。
 生命の…宇宙の呼ぶ声を。あれを聞いてしまったならば、戻れない。その声なき声を聞き、心に共鳴が巻き起こってしまったら。

 ロザリアとアンジェリークの目が合い、そうして互いの瞳の中に理解を見た。
 そして次の瞬間、アンジェリークはきゅっと唇をひきしめ、この上なく真剣な目になって言った。
「でもね、私、何も諦めたくないの。あの声に自分が応えられるのなら応えたい。でもオスカー様が好きで、オスカー様の傍にいたいと思う気持ちも本当なの。どっちか片方だけしか選べないなんて、ヘンだと思う。だってどちらも本当に好きなのに。私って欲張りかな」
「……そうね」
 ロザリアはくすりと笑って、とんっとアンジェリークの胸元を指で突いた。
「女王を目指すライバルとしては、宇宙の面倒はわたくしが見てあげるから任せておきなさいって言うのが妥当でしょうね。オスカー様のことはともかく、両方とも欲しいなんて言うのなら、まずは完璧なる女王候補であるこのわたくしに勝ってみせることね」
 わざと高飛車に言い放ってみせると、アンジェリークはなんだかとても嬉しそうな顔になって、枕を抱えたまま、横ざまにぽすんとベッドに倒れ込んだ。
「うふふ、そうね。でもどっちも頑張るもん」
「わたくしはそう簡単には負かせなくてよ?」
 ロザリアは、アンジェリークに向かって指を振り立てて見せてからちょっと笑って、自分もそっと横になった。


 明日のこともあるしと言い合って、とりあえず灯りを落とした闇の中に横たわり、ロザリアはひそかに思った。
 アンジェリークは強い。自分が勝利を得たら彼女は頼れる補佐官になるだろうし、彼女が女王の座についたなら、意志の力と愛に溢れた凛然と力強い女王になることだろう。
 ロザリアは、アンジェリークがオスカーから贈られたという白薔薇を思い、それを贈ったときの彼の気持ちが少しだけわかったように感じて微笑んだ。
「アンジェ、あなた白い薔薇の花言葉を知っていて?」
「…花言葉? 色によって違うの…?」
 既にちょっと眠たそうな声が、闇の中から返ってきた。ロザリアは、暗い天井を見上げながらうっすら微笑んだ。
「ええ。白薔薇の花言葉は、『私はあなたにふさわしい』、よ」
「………そうなんだ」
 一瞬の沈黙に続く囁くような応えに、感動が淡くにじんでいた。

 恐らく、自分の想像は間違っていないと思う。オスカーはアンジェリークが目指そうとしているものを受け入れており、更には彼女こそが女王になるだろうという確信を抱いてもいるのだ。
 あの気高い姿の白い薔薇は、彼女が至高の座についても求愛するというオスカーの密かな宣言なのだろう。
(…でも。わたくしだって負けませんわ)
 ロザリアは、闘志に満ちた笑みを唇に浮かべて目を閉じた。

 ──わたくしはロザリア・デ・カタルヘナ。生まれながらに女王の資質に恵まれた、完璧な女王候補。カタルヘナの大輪の薔薇であるのだから。


あとがき



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