FAITH


◇ FAITH 2 ◇



 夢の館を辞してから、オスカーはゆっくりと自邸へ向けて馬を歩かせていた。ぽくぽくと一定のリズムを刻んで歩む馬の背に揺られながら、ひんやりと顔にあたる夜風が心地よい。さすがに少し酔ったかなと思いながら、オスカーはふうっと胸の底から吐息をついた。
 今頃オリヴィエたちには、飲むだけ飲んで逃げたなくらいのことは思われていることだろう。飲むだけ飲んで、という部分については、あいつら人を酒の肴にしやがってという苛立ちも多少はあるので、別段どうとも思わない。ただ、逃げてきちまったなあという自覚は確かにあって、我ながら情けないぜと自嘲の笑みが口元を歪ませた。

 オスカーとて、彼らがただ自分をからかうだけのためにあのような場を設けたわけではないとわかってはいる。まあ奴らのことだから、面白半分という気分も底の方にはあるのに違いないが、大方は、吐き出せるものは吐き出してしまえという彼ら流の気遣いなのだ。それが逆に面映く、何かいたたまれないような気持ちで席を立ってきてしまった。
 自分らしくないとは思う。だが、ことこの問題に関してだけは、自分らしくいられたことなどこれっぽっちもないような気もする。傍から見たらさぞ滑稽に映っているのだろうなと、思わず溜息がもれた。
 大体オスカーは、自分で自分をコントロールできない状態というのが好きではない。それは本来激しい己を知っているからこその裏返しではあるのだが、とにかく何ごとにおいても過度に耽溺することのないよう気を配ってきた。何であれ「それなしではいられない」という状態を嫌い、酒も含めて無自覚な習癖となっているものはない。
 過去にいくつも渡ってきた「恋」についても同じことだ。常に先手を取って主導権を握り、いつでも綺麗な終わりに向けて上手に着地することを旨としていた。要するに結局はゲームでしかなかったということなのだろう。このような、胸をしめあげられるような苦しい思いなど、かつて味わったことがない。自分で自分の気持ちがままならないのも初めてだ。──それも、あんなお嬢ちゃんを相手に!
 まず恋などすることはあるまいと思っている時に限って、一旦とらわれると抜き差しならない深みへはまり込むものだと言うが、その通りかも知れない。気づけば目が彼女を追い、姿が見えない時には心がその面影を追っている。彼女とともにいる時には全てが鮮やかで生き生きと満ち足りているが、再び会える時を待つ間は自分の中ががらんどうになったかのようで、途方もなく長く苦しい時間に感じられる。全く、心が奪われるとはよく言ったものだ。オスカーはそう思い、空を仰いで嘆息した。


 きっかけは、ささいな偶然だった。
 聖地からの呼び出しを受けてひと仕事してきた日、ついでにちょっと大陸の様子を見ておくかと、ごく軽い気持ちで研究院に立ち寄った。その時に、遊星盤──精神を大陸に飛ばす装置にアンジェリークが立っているのを見かけたのだ。
 軽く目を閉じ、夢見るような微笑みを浮かべて胸の前で指を組んだその姿は、祈りを捧げる少女の像のようで、なかなかに愛らしいものだった。けれどもそれだけだったならば、「可愛らしいお嬢ちゃん」という既定のイメージを更に強めるだけのことに過ぎなかったかも知れない。
 ああ今日は視察に行っていたのかと思って、オスカーが何気なく足を止めたちょうどその時だった。アンジェリークの心が自分の体に戻ってきて、彼女がゆっくりと目を開いた。
 可憐な花が開くさまか、美しい蝶の羽化か。それとも彫像に命が宿る瞬間にでも例えるべきだろうか。見る間に生き生きと輝く瞳と、全身に満ちる歓びの波動。輝くばかりの笑顔にエリューシオンへの愛が溢れるさまを目にして、図らずも胸が震えるような感覚を覚えた。思わず引き寄せられるように一歩彼女に近づいた時、アンジェリークがきらめく緑の瞳に幸福感と豊かな愛とをたたえたまま、真っすぐに彼を見た。
 それは完全な不意打ちだった。光り輝くその笑顔に、目を奪われ心を奪われ言葉を失う。みぞおちに一発食らったような衝撃とともに、まるきり愛の天使そのもののようなその姿が、オスカーの心に一瞬にして灼きついてしまった。それと同時に理屈を超えて、彼女こそは自分の永遠のレディであるという確信が生まれてしまったのだ。
 崇高とも言えるその一瞬は、まばたき一つの間に消え去り、気づけば目の前にはいつもの可愛らしいお嬢ちゃんが、びっくりしたようにぱちぱちと目をしばたたかせて立っていた。
 そして次の瞬間には、アンジェリークはいつものように「こんにちは!」と元気に挨拶し、彼の方も常と変わらず「よう、お嬢ちゃん」と気軽に返し、そのまま普段通りの会話が続いていった。しかしそうしながらも既に、オスカーの心の一番深い場所には、決して消えない刻印がしっかりと刻み込まれてしまっていた。

 それまでも、可愛いお嬢ちゃんだと好感は抱いていた。数年先にはいい女になるだろうなと思い、先が楽しみなことだと楽しい気分になることはあった。だがあの一瞬を境に、彼の心の有りようは大きく変わった。
 単純に、恋に落ちたというだけではない。あの瞬間、一人の男としてのオスカーの目に映った愛の天使の姿は、同時に守護聖としての彼には、光の女神としてもとらえられていた。
 アンジェリークが次なる女王だ。その直感は、急速に彼女へと向かう恋心と同等の強さで彼の心を支配する、圧倒的なものだった。彼女が欲しいという強烈な気持ちと、欲してはならない相手なのだという確信。その二つの気持ちに同じ強さで引き裂かれた時から、甘美な苦しみが始まった。
 この想いを彼女に打ち明け、俺のものになってくれと懇願できるものなら、どれほど楽であったろう。アンジェリークの心を得て、あの愛に満ちた輝く笑顔を自分だけのものにできるならば、くだらないプライドなどかなぐり捨てて彼女の足元に膝を折り、愛を請うことくらい何でもない。だが一方で、彼女の溢れる愛を受け取るのは宇宙でこそあるべきだろうと諌める声が、彼の中には厳然と存在する。その声を否定することは、守護聖として在る今の自分自身を否定することでもあった。
 アンジェリーク自身がその意志で、女王の座へと至るきざはしから身を翻して駆け降りてきてくれるものならばいい。だが、ひたすらにひたむきに上を目指して登ってゆく彼女のその手を掴んで引きずり降ろすような真似だけはできない。その思いが彼を引き止め、オスカーは自分の心を殺しても、「お嬢ちゃんを見守る守護聖」であり続けることを自分に強いていた。
 それでもなお、可能な限り彼女の傍近くにありたいという衝動は抑えがたく、あくまで一守護聖としてもっと距離を置くべきだという内面の声は、彼女の姿を声を手を近々と感じていたいという気持ちに押しながされてゆく。自分を見上げる彼女の瞳に初々しい憧れが宿るようになり、やがてそれが仄かな熱を帯びた揺らぎに深まってゆくのを見るうちに、いっそこの手に奪い取ってしまえという思いが日増しに強く突き上げる。
 それでも自分がブレーキをかけずにどうするのだと思うから、軽いからかいに紛らしては彼女をかわし、それで傷ついた彼女の瞳を見ては胸を痛めて、また手を差し伸べてやりたくなる。
 ……矛盾だった。


 木立を抜けて開けた場所へ出ると、ぽかりと眼前に広がった夜空に針のように細い月がかかっていた。
 冴え冴えとしたその美しい輝きに、自分の心に深く刺さって抜けない金色の棘のイメージがだぶる。痛みは常にそこにあり、時にひときわ甘くうずいて体中を震わせる。だがその痛みを知らずにいるよりも、この棘を胸に抱いて歩む今の方が確かに幸福だとも思えるのだ。
 ほっそりとした愛おしい姿を思い描き、またきりっと胸がうずいた。会いたい、と、全身の細胞が声高に喚き立てる。
 彼女は今どうしているだろう。もう休んでいる頃か、それともまだ起きているのだろうか。──今日は早い時間から飲み始めていたことでもあり、まださほど遅い時間ではない。起きていてもおかしくはないなと思い、そう思うと無性に会いたい気持ちがつのった。
 せめて女王候補寮の窓の明かりだけでも目にできたら。一瞬本気でそう思って、オスカーはそんな自分に苦笑した。
 どうやら自分で思っているよりも、相当酔っているらしい。こんな気持ちで彼女の窓の下にでも行った日には、何をしでかす気になるものか知れやしない。
 彼はもう一度空を見上げて細い月を見つめてから、馬首をめぐらせることなくそのまま軽く馬の横腹を蹴ると、真っすぐ炎の館へ向けて駆けさせた。


 その同じ月を、愛らしい彼の想い人が窓から見上げて切ない吐息をついていたということを、オスカーは知らない。



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