星降る大地に


◇ 星降る大地に 2 ◇



 シャトルから降り立ったオスカーは、胸の奥深くまで故郷の空気を吸い込み、抜けるように青い空を感慨深げに振り仰いだ。

 この星を離れてから、外界ではどれほどの時が過ぎ去ったのだろう。聖地の時間経過は一定ではないし、正確なところはそれこそ王立研究院にでも問い合わせないことにはわからないのだろうが、何百年という単位で時が過ぎていることは確実だ。
 シャトルの窓から目にした宙港周辺の様子などは、様変りしたと言うも愚かなほどに大きくその姿を変えていたし、建物の様式その他もすっかり移り変わって、今や主星圏の都市を見るのとさして違いは感じられない。故郷へ戻ったというよりも、いつもの視察と同様に、とりたてて馴染みのない星へ降り立ったというような感覚があった。
 だがそれでも、この空気はやはりどこか懐かしい何かを含んでいる。──目で見る変化とうらはらに、肌で感じるのはやはり変わらぬ故郷の風だ。
 大気の組成そのものが、人としての五感に訴えかけてくるものか。それとも連綿とこの星の上で血をつないできた人々の独特の気とでもいうものが、守護聖としての感覚を震わせているものか。
 いずれにしても、一歩この大地に降り立った瞬間に全身を濃密に包み込んで来たえも言われぬ一体感の中には、自分の中の一部は変わらずこの地に属しているのだという思いを新たにさせるに十分なものがあった。

 彼がそんな感慨に浸っていたのは、時間にすればほんのわずかな、ごく短い間だった。
 そして内心に感じた諸々をほとんど表情に出すこともなく、そのままきびきびと歩みを運んでゆく。そんなオスカーの後ろ姿を見つめながら、アンジェリークは複雑な思いに眉をほんの少しだけ曇らせた。

 恋人として彼と付き合うようになってから、それほど長い時を過ごしてきたわけではないけれど、それでもオスカーがあまり心情を表に出す人ではないことくらいは知っている。特に、大きな感情の揺らぎがあるほど、それをしっかり自分の中だけに押し隠してしまう質であることも薄々はわかってきていた。
 …何百年の時を飛び越えて、故郷の大地に立つというのはどんな気持ちがするものなのだろう。補佐官として過ごした月日はまだ浅い彼女も、既に両親はみまかっており、外界と聖地の時間差というものの非情はわかっているつもりだ。ひょっとしたら、係累も何もかも失われて久しい時を経てから戻ることの方が、ある意味では気楽なのかも知れないが──その辺のことは、彼女自身にはまだ想像も及ばない。
 それに加えて、今回はただの訪問というわけではない。サクリアのバランス異常調査ということは、大なり小なりこの星が何らかの危機に直面しているという意味を含んでいるのだ。
 この出張は、オスカーには辛かったのではないだろうか。
 だからと言って動揺するような人ではないとは知っているが、例え動揺があったところで顔に出す人でもないだけに、ほんのちょっぴり心配でもあった。


 そんなアンジェリークの心配をよそに、オスカーはいかにも手慣れた様子で現地の王立研究院のスタッフと綿密な打ち合わせを行い、てきぱきと調査のスケジュールを立てていった。
 さすがに視察慣れしているだけあって、彼は段取りよく事を進め、どんどん予定をこなしていく。
 アンジェリークはほとんど何をするというわけでもなく、彼の指示の通りに要所要所のポイントに赴いては、その都度直観的に感じたことを抽象的な言葉でオスカーに伝えるということだけしていればよかった。

 そのようにして、たちまちのうちに数日が過ぎていった。


◇◇◇


「──なんだか面倒なこと全部、あなたにやってもらっちゃって悪いみたい」

 予定通りに一通りの調査を終え、最後のチェックポイントとして都市部を離れた草原地帯へと向かう飛行機の中で、アンジェリークがぽつんと呟いた。
 オスカーは軽く笑うと、手を伸ばして彼女の髪をくしゃりと撫で、優しく答えた。
「その為に連れてきたんだから、存分に使えばいいさ。今回はこれが俺の仕事だったんだし、君には君で、女王補佐官にしか捉えられない微妙な揺らぎを感知するという重要な役目があったんだ。初視察にしちゃしっかりやれてると思うぜ。自信を持てよ」
 別段無力感からそう言ったわけではなかったのだが、さりげなく力づけてくれるオスカーの心づかいは嬉しかったので、彼女はほんのりと微笑んだ。

「今回の異常、あまり深刻な事態じゃなかったみたいでほっとしたわ」
 補佐官として民を慮る立場と、恋人の故郷を思いやる心のない交ぜになった気持ちでそう言うと、オスカーが心から賛同を示して大きく頷いた。
「そうだな。念のためもう一箇所でデータ取りをすれば、調査完了だ。思っていたよりことがスムーズに運んでよかったぜ」
 彼の声にも、やはり安堵がにじんでいる。アンジェリークは微笑み、それからふと話題を変えた。
「…これから行くところって、あなたのほんとの故郷に近いんでしょう?」
「ああ。まあ草原地帯の中ってのは、どこも大差ないといえばないんだが。そうは言っても、かつて自分が実際に馬を駆って走り回った一帯に行くと思うと、多少は心も躍るものがあるな」
 生まれ故郷に立つ感慨を顕わにするのが面映ゆいのか、ちょっと冗談めかした軽い口調で答えるオスカーに、アンジェリークは黙ってにこりと笑顔を返した。
 彼の故郷であるのだから、その感慨は彼の権利だ。アンジェリークは、彼がそのまま遠い目で物思いにふけるのに任せておいて、膝の上の資料に目を落とした。
 恋人同士であっても、時にはあれこれ詮索したり口を差し挟むべきではないこともある。今はそっとしておいてあげた方がいいだろうと、そう思った。


 ほどなく彼らは、草原地帯のただ中へと降り立った。
 夏の強烈な日射しの中で、強い風に吹き散らされがちとはいえ、むせるような草いきれが彼らを包み込んでくる。アンジェリークは、ここがオスカーの育ったところなのねと感慨を深め、ぐるりを大きく見回した。
 当のオスカーは研究員たちにあれこれと指示を飛ばし、やることをさっさとすませてしまおうというように、感傷とはいかにも無縁に忙しく立ち働いている。それを目の端に捉え、少しは手伝わなきゃと思いながらも、彼女は見渡す限りに広がる緑の大地の中に立ちつくしたまま、動くことができなかった。

 人の手の介在していないその光景は、決して一様な緑の絨毯のようではなかった。丘なみのそこかしこに野の花が鮮やかな彩りを添え、青々とした草の連なりもまた、銀色に輝く小川の傍ではより濃く、早くも細い穂をたなびかせている辺りではより淡くと、様々な表情を見せている。それは、荒削りながらも生命力に満ち溢れた、伸びやかで力強い光景だった。
 振り仰げば、一片の雲すらない吸い込まれそうに高い高い空が広がり、彼女を取り囲む草の大海を更に果てなく見せている。
 その壮大さに打たれながら、アンジェリークは大きく息をついた。

(なんて…なんて広くて、果てがないんだろう……)

 これが、オスカーを育んだ大地。なんて似つかわしいことだろう。彼の中にはこの草原に通ずるものがあり、この草原にもまた、確かに彼に通ずる何かがある。
 そのせいだろうか、初めて訪れる土地であるのにしっくりと空気が体に馴染むようで、どこか慕わしいような懐かしささえ感じられた。
 そのことが、なんだか自分がこの草原に受け入れられた証のように思えて、アンジェリークはひどく嬉しくなった。


「──何か感じるか?」
 いつの間にか傍に歩み寄ってきていたオスカーが、静かな低い声で尋ねてきた。
 アンジェリークもまた、囁くようにそっと応じる。
「この土地は、とても健やかだわ。…欠けていた何かはもう埋められたという感じ。きっと、炎の力が求められていたのね。あなたが直接訪れたことが、いい影響を及ぼしたんだわ」
「そうだな、それは俺も感じた」
 オスカーは低く同意して、研究員たちの方を振り返ると、予定通りにデータ収集をすませたら撤収だと声を張った。
 そう指示しておいて、彼はアンジェリークの肩に手を回すと軽く引き寄せ、渡る風に波打つ草の海の彼方へ目を向けてうっすらと微笑んだ。

「……この光景だけは、変わらないな」

 ぽつりともらして、そのあとは黙って風に吹かれているオスカーを見上げ、アンジェリークはちょっとためらいがちに問いかけた。
「やっぱり、辛かった?」
「いや」
 オスカーは小さく笑うと、彼女の肩を抱く手に力をこめて、安心させるように軽く揺すぶった。
「変化し続けることというのは、すなわち生命力の証左だからな。この星が大きく変わっていったことも、それでもなおこの草原の風は変わっていないことも、どちらも俺にとっては喜ばしい。流転し成長を続けながらも、本当に大切なことだけは変わらない──それはかつてこの俺を育んだこの星にふさわしいことだと、心から誇りに思うぜ。……もっとも、既にここは、本当の意味で俺の『帰る場所』であるとは言い難いがな」
 そう言ってオスカーはにこりと笑い、戸惑いの色を浮かべたアンジェリークの瞳を覗き込んで、そのふっくらとした頬の線を指先でゆっくり辿った。
「俺の帰るべき場所は、もう別にあるから…な?」
 甘く艶めいた声の含みに、アンジェリークの頬がぱっと染まる。オスカーは嬉しそうに微笑むと、彼女を後ろから抱え込むようにきゅっと抱いて、遠くけぶる地平を見ながら考え深げに続けた。
「それでも、君とこの星に来られてよかった。この草原に共に立つことができてよかったよ。いつか一度、君にこの光景を見せたいと、俺はずっと思ってきたんだ」
 彼の胸に背を預け、風が渡ってゆく光る草原を見ながら、アンジェリークもまたにこりと微笑んだ。
「私も嬉しい。あなたが育った土地をこの目で見られて、あなたと一緒にこの丘に立てて、本当によかった」
 心からそう言って、彼にもたれたままオスカーを見上げる。オスカーが軽く眉を上げ、とても満足そうに笑い返して来た。湧き上がる幸福な思いに、彼女はくすくすと小さく笑った。

 ──と、オスカーがふと何かに思い当たったように少しだけ面をひきしめ、ややあって「今夜は新月だったな」と低く呟いた。
 そのまま黙りこくってしまったオスカーに戸惑い、アンジェリークは彼の腕の中でちょっと居心地悪げに身じろぎした。
「…オスカー?」
「あ、いや」
 我に返ったように彼女を見て、オスカーは詫びるような笑みを浮かべ、それからまたすっと真顔になった。

「今夜、ちょっとつき合ってくれないか。君に見せたい光景がもう一つある」



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